聖日礼拝メッセージ
2013年3月10日 更新

聖 書 ヨハネ4:7〜15   (第22講)
   題 「神の最高の賜物は、霊をうるおす泉」


  (序)深層部に隠れている飢え渇きの心

* イエス様のメシヤとしての宣教活動は、ガリラヤを拠点としてなされるのですが、その前に、ただサマリヤを通過されたのではなく、サマリヤを通らなければならないとお考えになったことが記され、ユダヤ人からは半異教的民族として軽蔑されていたサマリヤでの宣教を念頭に置いておられたことが分かります。

* 人間的な感覚で読むならば、ガリラヤまでの長旅で疲れて、暑い日中、のどが渇き、水が簡単に手に入らなかったこの状況において、井戸にたどり着き、何とか水を飲みたいと井戸のそばで休まれた時、そこに偶然サマリヤの女の人が来合わせたので、水を飲ませて欲しいと話し掛け、そこから女の人の心の中にある飢え渇きの思いを感じ取って、生きた水について話して行かれたという状況だと思うのが普通でしょう。

* しかし著者ヨハネは、あえてサマリヤを通る必要性を考えておられたイエス様のお心を読み取り、サマリヤがすでに色づいた刈り入れ場となっていることを読み取っておられたので、その初穂としてサマリヤの女の人と出会うことを予測しておられたのだと考えたのです。

* 神の働きかけに偶然は一つもありません。すべては必然的になされたものであります。もしこのことを受けとめることができないなら、人間は偶然の中で最善になることを求める、宝くじ的生き方をするしかないのです。イエス様は、神のお心に沿って必然的行動として、サマリヤを通られ、この井戸で休まれたと言うのです。

* もちろん、イエス様が、神としての力に満ちておられるから、旅をしても疲れることがないので、ここでは疲れた振り、のどが渇いた振りをして、サマリヤの女に話し掛けられたと言うのではありません。現実に、体力的に疲れを感じ、のどの渇きを覚えられたのです。それを導入にして話し掛けられただけです。

* すなわち、これは誘導のための誘い水でありました。ここに一つの伝道の型を見ることができます。うそからではなく、現実の事柄から相手の心の中にまで入り、心の奥に隠されている飢え渇きを見出し、そこに向かって語りかけていき、真の満たしを提供していくのです。

* なぜ誘導していく必要があるのでしょうか。それは、人間が悟りのない者、頑固な者、偏見に凝り固まった者だと言えるからです。なぜなら、私たち人間は、自分の奥深い部分が分かってはいない者だからです。

* 深層心理学用語で言われている、深層とは、自分で意識できる部分は氷山の一角で、その意識の下に隠された無意識の世界があり、それが幾層にも分かれていると言うのです。

* それ故、自分が分かっているつもりで自分の深層部が見えてはおらず、ある思い込みを持つことによって、無意識の世界を覆い隠し、自分が本当は何を求めている者であるのか、何を必要とし、何に満たされることが真の幸いを得、人間としての喜びにあふれることができる者になるのか、気づいていない人は多いのです。

* 聖書の理解で言うならば、人間の本質である霊が深層部にあるのですが、罪がすべてを覆い隠したので、深層部は隠れたままであり、人は、罪に生き、罪の現実を受け入れていくしかない者だと思わされてしまっているのです。

* このサマリヤの女の人は、自分の渇きを満たしてくれる水を求めて、日毎人が来ない時間帯に、こんな遠い場所まで、人がやってこない井戸を選んでやってきていたのです。水は重たいので、なるべく近くで得ようとするものですが、人目を避けていた彼女にとっては仕方のない方法だったのです。

* そのような閉ざされた心を持ったサマリヤの女の人に、水を飲ませて欲しいとの語りかけから、彼女の心の深層部に入り込み、彼女の奥深く隠されていた飢え渇きを引き出そうと誘い水を注いで、その真の飢え渇きを満たす霊的な導きへと誘導していかれたのが、この記事において明らかにされているのです。

* 私たち信仰者は、罪の覆いを取り除いて頂いた者として、自分の深層部を理解する者とされ、何が私にとって真の飢え渇きを満たすものであり、神の前に立つことのできる真の人間とされ、真の喜びと幸いを頂く者とされるものなのか、この記事を通して学び取って行きたいのです。


  (1)霊が解放された者としての向かい方をする

* 現実にイエス様は旅の疲れを覚え、のどが渇き、水を求めておられました。そこにやってきたサマリヤの女は、ユダヤ人の男性がそこにいるのを見て、一瞬ひるんだと思われますが、あきらめて引き返すには大変であり、顔を背けるようにして井戸の方に向かったのでしょう。

* このヤコブの井戸と言うのは、ゲリジム山の北東山麓にあって、彼女が住んでいた町はスカルと言い、今日ではそれはアスカルのことではないかと考えられ、町まではおよそ800メートル離れていたと言います。(地図参照)

* そんな彼女に対して、イエス様は何のこだわりもなく語りかけ、「水を飲ませて下さい」と願われたのです。この時の彼女の驚きは一様のものではなかったでしょう。「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女の私に飲ませてくれとおっしゃるのですか」と言いました。

* 井戸から水を汲むのは女性の仕事でありました。ですからこう願うのは不思議ではないのですが、当時のユダヤ人の男性はサマリヤの女性に声をかけるというのは、当時の宗教的常識から言ってとんでもないことであったからです。

* この言葉を誘い水として、この井戸の水を飲ませて欲しいと言ったこの私が何者であり、神が与えようとして下さっている驚くべき賜物がどのようなものであるか分かったなら、あなたの方からもっと優れた生ける水をもらいたいと思うだろうと言われたのです。

* 彼女にとって水は大切なものであり、遠い所を、人目を避けて汲みに来なければならないものでありました。水を飲ませて欲しいと願っている者が、この水よりはるかに優れた生ける水を、私に願うようになるとのわけの分からないことを言われて、少し混乱していたことでしょう。

* 彼女が今まで考えることがなかったヤコブの井戸の水以上の生ける水とは何か。それを与えると言われているこの方は誰なのか。疑問が次から次へと湧いて出てきたことでしょう。このような誘導を通して、今まで意識してこなかった奥深い内容へと思いが向けられていくのです。

* そこで彼女なりに判断したことは、生ける水とは、当時の普通の言葉で言えば、溜まり水ではない、流れている水、泉のように湧き続けている水の事を指していましたから、この人のいう生ける水とは、どこか流れている川か、泉を知っていて、それを私に教えてくれると言うことか、もしヤコブの井戸より優れた良い水があるのであれば聞いてみたいと思って言ったのでしょう。

* 昔から良質の水として汲まれてきたこの水よりも優れた生ける水を手に入れることができるとは本当なのか、怪しげに思いながらも思いが引っ張られて行ったのです。

* イエス様が示そうとされたのは、良質のものか、流水か、湧き水かという水質についてではありませんでした。どんなに水質のよいものを飲んでも、それは渇きを一時的に満たすだけにすぎないが、私が与えるものは、一度飲んだら2度と渇くことがないという、その水が持つ永遠性についてでありました。

* これは、彼女の心の中に閉じ込められていた霊を解放し、人として何を求め、何を大事にする必要があるのか、罪によって閉じ込められていた深層部を解放し、人としてのあるべき姿に気づかせ、それを満たすことのできる神からの賜物に目を向けさせようとするためでした。

* しかし、しっかりと閉じ込められている彼女の深層部は、このような語り掛けによって解凍されることはなかったのです。彼女の思いを覆っていた世の思いが働いて、2度と渇くことのない水があれば、もう大変な目をして、人目を避け、暑い最中に水を汲みに来なくてもいいのだから、そんな特別な水があったら、この私にぜひ下さいと言ったのです。

* 彼女の深層部をこじ開けようとされたイエス様の働きかけに対して、閉じ込められた霊は、なかなか開かれず、しっかりと覆っている世の思いで判断し、世の思いで対応しようとしているのを見させられるのです。

* これは、救われて、霊の解放を頂いた私たち信仰者においても、同様の働きかけがあると言えるでしょう。肉体は世に置かれており、肉の思い、世の思いでなお覆い尽くそうと働き続けている罪が活動しているがゆえに、余程強く意識し、霊が解放された者としての向かい方をしなければ、彼女のように、御言葉に対してでさえ、肉の思い、世の思いで判断してしまうという、世的な姿を現すことになってしまいます。


  (2)永遠の滅びに至る泉

* なぜ彼女の最深部は解凍されず、世の思いでしか反応できなかったのでしょうか。これは、彼女がまだ自分を見つめてはおらず、自分の状態が分かってはいなかったから、自分を伏せたままで、よいものを頂きたいと願っている所に問題があったのです。

* それは言わば、もはや住むことのできない古い家を壊して更地にしようとせず、古い家があるまま、その上に新しい家を建てたいと願うようなもので、それは誤った向かい方であったのです。

* 主が提供しようとしておられる永遠の命に至る泉を受ける前に、自分がどのような古い泉を持っている者であるかを理解し、それを取り除かない限り、新しい神の賜物としての泉を受け取ることができないのです。

* 人間は、どのような古い泉を持っているのか、聖書はその悲惨な様を明確に示しています。アダムとエバが罪を犯した時から、人間は内側に罪というどうにもならない泉を持つようになってしまいました。それ故、創世記8;21で、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」とはっきりと言われています。

* すなわち、人間の内側に持つようになった罪の泉は、その人の内側に、あらゆる悪と不義と汚れを湧き上がらせ、不安と不満と恐れと悲しみとをあふれさせ、人を滅びへと至らせようとするのです。

* この泉を持たない人は一人もいません。この罪の泉は自分を困らせるだけではなく、人にも悪影響を与え、人を引き落とし、人としての真の生き方をしようとする思いすら起こさせない世的人間、肉的人間にしてしまい、神の方を向かない人間にさせてしまうのです。

* それは、永遠の滅びに至る泉であり、その力は強く、とどまることを知らない恐るべき泉です。この泉が覆っているが故に、深層部は解凍されず、世の思いでしか反応できないようになっていたのです。

* しかしイエス様は、このような滅びに至る泉を持ち、霊がカラカラ状態になっていた彼女に対して、簡単にあきらめるようなことはなさらず、この後、違った角度からそこにメスを当てていかれるのです。それは、その所で学ぶことにしましょう。


  (3)永遠の命に至る泉のすごさが分かっているか

* イエス様は、ご自身が語っておられる、渇くことのない水とはどのようなものなのか、聞き間違うことのないように言われました。「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がる」ものだと。

* 生ける水と言うのは、流水のことでも湧き出る泉のことでもない、その人の内側に与えられる霊的泉のことであって、それはいつまでも湧き続けるものであり、その泉は永遠の命に到達する驚くべき力ある泉だと言われたのです。

* 神は、預言者イザヤを通して、私はあなたがたのことを大事な民として守り導いているということを示されるのに、「泉のほとりに彼らを導かれる」と語っておられます。(イザヤ49:10 旧1015)ここで示されている泉とは、途切れることなく永遠に愛し続け、導き続けるとの神の愛の思いが、泉のほとりという言葉で言い表されているのです。

* イエス様は、その泉をあなたの内側に与えよう、その泉はあなたの霊をうるおし続け、永遠の命があなたの中で完成するまで途切れることはない。あなたに神の賜物として与えようとしている、そんな驚嘆すべき絶品の泉だよと言われたのです。

* これは、具体的に何を指して語られたものなのでしょうか。ここには具体的には語られてはいませんが、そのヒントとなる言葉は、それは、神からの賜物であると言うことと、永遠の命に至るという、この2つの言葉から考えてみると分かります。

* イエス様は、ご自身の祈りの中で、神から私に賜ったもっとも重要なもの、それは神から頂いた神の言葉であり、それを彼らに与えたと祈っておられます。(17:7,8)すなわち、神からの最高の賜物は、その人を神の力で満たすことのできる神の言葉だと言われているのです。

* そして、その賜ったお言葉によって、永遠の命に到達するようにして下さっていると言うのです。6:40から理解できることは、永遠の命に到達することは、終わりの日によみがえることを意味するということです。

* 更にイエス様は別の所で、「わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と言われ、その解説として、これは・・・御霊を指して言われたのですと語られています(7:38,39)

* すなわち、永遠の命に到達する驚くべき力ある泉とは、神のお言葉であり、その神のお言葉がその人の内で泉のように湧き上がり、途切れることのない力となり、激しい流れとなって霊をうるおし続け、霊が2度と渇くことがない者にされると言われているのです。

* そのためには、人間の知恵で受けとめるのではなく、神の知恵によって受けとめる必要があります。その手助けをして下さるのが神の御霊であり、その御霊の働きかけによって神の知恵を受けて御言葉を味わい、それを内なる力に変換して頂けるのです。

* ここまで明確に示されても、彼女は、肉の思いでしか聞くことができなかったので、世的に満たしてもらえる水としか受けとめることができず、御言葉は彼女の力とはならなかったのです。

* 私たちが受けている神の御言葉は、永遠の命に至る泉となっていると言えるでしょうか。神の力に満たされ、途切れることのない力となって、霊をうるおし続け、神との深い結びつきを、霊で感じ取っていると言えるでしょうか。

* 霊にうるおいがなくなると、カサカサ肌になり。不安と恐れが襲い、穏やかさと落ち着きとが奪われ、世的に一時的な満たしがあっても、長続きせず、霊にうるおいをもたらすことにはなりません。しかも、それが永遠の命に到達する力となるものではありません。

* 永遠の命に至る泉のすごさが分かって、それを日々味わい、その力に満たされて、霊のうるおいが途切れることなく、聖霊が奔流のような激しい勢いを持って流れる川のように、私の中に流れて下さっていると確信し、喜びにあふれているか、ここで問われていることを感じます。


  (まとめ)神が生ける水の源

* イエス様は、飲む水の話から、サマリヤの女の人の、深層構造になっている心の最深部である霊を解放しようと働きかけていかれたのです。それは、世のことしか心を向けていない人の内側に隠されている、人として何を求め、何を大事にする必要があるのか、閉じ込められている霊が求めている飢え渇く思いを引き出し、霊を満たすことのできる泉に目を向けさせようとされました。

* 私たち信仰者も、信仰を持つ前は、罪の泉が内側にあふれ続けている者でありました。滅びに至る泉のお陰で、完全に世的人間、肉的人間になってしまっており、一時的な世的満たしを求める者でしかありませんでした。

* そんな私たちに、主は永遠の命に至る泉を与えて下さり、その泉は御言葉として神の力に変換させ、聖霊の激しい流れによって霊をうるおし、神にある幸い、平安を味わい、終わりの日によみがえらせて頂ける希望に生きる者にして下さったのです。

* この賜物の素晴らしさが分かった人は何と幸いでしょうか。古い泉が処理され、永遠の命に至る泉が内側にあふれ続けるならば、時にはいろいろな問題が起きたり、苦しみ悩んだりすることに出会おうと、その時にはかき回されて一時的に泥水となろうと、泉が湧き続けているならば、また澄んだ水になり、平安と喜びと感謝に満たされるのです。

* エレミヤ書2:13で、神が生ける水の源であると語られています。永遠の命に至る泉の源は神であるのですから、神のお言葉を頂くと言うことは、神を頂くことであり、神が私たちの内側で力そのものとなって下さるということが分かるのです。

* 確かに、私たちの内から罪の泉を完全になくすことはできません。肉の思い、世の思いが出続けるでしょう。しかし神そのものである泉を頂くことにより、その偉大な力で肉の思い、世の思いを流し去り,永遠の命に至る泉であふれさせて頂けるのです。このことを霊において実感するなら、これほど平安なことはないでしょう。



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