(序)霊は閉じ込められている
* 前回は、心の最深部に潜んでいたサマリヤの女の飢え渇きの思いを見て、イエス様は、誘い水として「水を飲ませて欲しい」と語りかけ、そこから、彼女の内側に隠れていた、真の人間としての飢え渇きを引き出そうとして、一度飲むならば2度と渇くことのないという、生ける水の情報を提供し、心を引き込もうとされたのです。
* イエス様は、彼女がこのことをそう簡単に理解し、自分を明け渡すとは思ってはおられず、たとえその生ける水を私に下さいと言ったとしても、霊は開かれたわけではないことを見ておられたのです。
* 彼女が、生ける水を得るためには、幾層にも覆われている彼女の心の層をこじ開けていかなければならないと考えておられたのです。
* 罪によって覆われた層は厚く、ある人などは12単(ひとえ)ほど重層になっていて、霊が開かれるまでは大変な人もあるのです。それは傲慢の心であったり、保身の心であったり、それらは罪によって作り出された、霊を閉じ込めるために強力な罪の心の層であります。
* 彼女が、最初は、イエス様のことをうさんくさく思う所もあったように感じられますが、生ける水についての説明を聞く中で、まず彼女の警戒心が取り除かれ、宗教的違和感もなくなり、驚くべき生ける水の提供者と受給者との関係に立ったのです
* しかし、受給者になろうとする彼女の、生ける水についての無理解と勘違いがあったばかりか、彼女にはまだまだ心の覆いは深く、霊を何重にも覆っていたので、真理は届かず、肉の思い、世の思いでしか受け止めることができなかったのです。
* ここからが、イエス様の伝道者としての卓越した働きかけがなされていくのです。何重にも覆われていた心がこじ開けられていく様子を学ぶことは、私たちに対する神の働きかけを理解することでもあり、その働きかけを正しく受け取っていないなら、私たちもまだ霊が開かれた者とは言えません。
* 幾層にも覆われた罪の心の底で、霊が閉じ込められたままであるならば、それは神との深い結びつきを頂いた者だとは言えないでしょう。サマリヤの女の人の変化を通して、私たちも信仰のあるべき姿を学び取っていく必要があると言えます。
もし罪の心が5層だとするならば、罪の心5が、一番難攻不落のエリコの城のようなものだと言える。
霊は何層にも覆われ閉じ込められている。
(1)自分の事を見て下さっている神
* 生ける水の提供者であることを示されたイエス様に対して、その水を私に下さいと彼女は言いました。それに対して答えられた言葉にしては、全く唐突のように見えるイエス様のお言葉が次に語られるのです。「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」と。これは一体どういうことでしょうか。
* この言葉は、唐突に見えてそうではなく、イエス様の計算によって語られたものであったのです。それは、罪の心1がこじ開けられた位ではまだ生ける水を受ける状態にはならず、もっと奥深くこじ開けようとして語られた内容が、彼女の人間性の本質を明らかにするものでした。
* 自分の心を守り、自分の心を隠したまま、自分にとって良くなることだけを考えている、まだ何重にも覆っている罪の心の層をそのままにして、心の奥底までは決してさらけ出そうとしないのを見て、彼女のだらしない生き方を指摘しようとされるのです。
* それでは、なぜ夫を連れてくるようにと言われたのかを考えて見ることにしましょう。その問いかけにどう答えるかによって、彼女の飢え渇きの真剣度が測られているのです。自分のやみの部分を、それでも隠そうとするのか。それともごまかそうとするのか。あるいは正直に告白して、自分を差し出そうとするのか。彼女の取った方法は、その中間とも言える、ぼかした答えでしかありませんでした。
* すると、イエス様は、私にはあなたのすべてが分かっている。それでもなおうわべを取り繕うとするのかと言わんばかりに、「確かに、あなたが夫はいないと言ったのはその通りだ。あなたには、過去に5人の夫がいたが、5回離婚しており、今同棲しているのはあなたの夫ではない」と指摘されたのです。
* 女はドキッとしたでしょう。なぜこの私のことを知っておられるのか。この方は私の内面をすべてご存知なのか、この方の目に、何も隠すことができないということが分かった時、彼女の心はこじ開けられ、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます」と言いました。
* これまでは、自分のだらしない私生活が人々のうわさの元となり、人々の裁く目、口がうっとうしく、神に対しても、半分避けていた所があったのです。しかし、彼女の霊は死んではおらず、自分のことを見つめておられる神の目を感じたのです。神の目から逃れることはできない。神の目を持つこの方は、神から預言者として遣わされたお方に違いないと思ったのです。
* 自分のすべてが露わにされた時、これまでしっかりガードしていた彼女の心の層は、一気に解き放たれ、霊が覗いたのです。
* 人々に対しても、神に対してもふてくされていて、これまでは自分でも自分の姿を直視しない向かい方をしていたと思われますが、そんな自暴自棄の生き方が白日の下にさらされた時、霊は動き始め、すべて明らかにされて恥ずかしいと言うより、自分のことを見て下さっている神がいて下さることを感じたのです。
* 神は、この私の汚れを見ておられる。神の目から逃れることはできない。人の目を避け、自分の目を避け、自暴自棄の生き方をしようとも、神の目から隠れることはできない。そう観念したのです。ここに彼女の大きな転換点を見ることができます。
* あれほど、自暴自棄の生き方をしてきたのに、霊は死んではおらず、飢え渇きを持ったまま閉じ込められていたのです。自分の愚かさ、くだらなさ、汚れをなるべく見ないようにして生きてきたのに、すべてが白日の下にさらされた時、覆いかぶされていた何重もの罪の心の層が取り払われ、霊は神を見上げたのです。
* もちろん、すべての人が同じような反応をするわけではありません。人によって覆っている罪の心の層の種類が、また厚みが異なっているからです。しかし、すべての人の霊は同様に死んではおらず、飢え渇きを持ったまま閉じ込められている事実は変わりません。
* 霊が解放されない人生ほど虚しいものはありません。彼女は、神の全知性をイエス様のお言葉によって受けとめことによって、完全とは言えませんが、霊が解放されたのです。
* 信仰を持ったら、霊が解放されていると言えるわけではありません。キリストのあがないを信じながら、霊を覆っている罪の心によって神を見上げているという肉信仰があるからです。
* 自分を根底から造り変えて下さるようにと差し出すことをせず、自分の思いを中心にしたまま、それを変えようとせず、自分の思いで判断して、良いと思える事だけを受け取っていこうとする、すなわち、神の励まし、慰め、助けのみを得ようとする御利益信仰がそれです。
* 多くの信仰者は、霊が解放されないまま、何重もの罪の心の層に覆われたまま、肉の思いによって信仰を持ち、思い通りに行かないと不満を言い、たえず疑いとつぶやきを表し、神の前に立とうとしないのです。だから霊の喜びにあふれることができないのです。そのことは出エジプトの民の姿によく表れています。
* サマリヤの女の人は、神がこの私のしたことをすべてご存知であるという一点に触れたことによって、自分を覆っていた防護服を脱ぎ去り、あなたは神から遣わされた預言者ですと認めたのです。これは、彼女の明確な霊による活動の第1歩となったのです。
(2)礼拝観念を一新する新しい時代
* 霊が目覚めて最初に出てきた疑問が、神をどこで礼拝すればいいのかという、サマリヤで生まれ育った者が抱いていた疑問であったと言えます。と言うのは、サマリヤでは先祖伝来ゲリジム山(アブラハムがイサクをささげようとした所)で礼拝をささげてきたが、ユダヤではエルサレムでなければならないと言い、長年反目し合っていたからです。
* 北イスラエル王国がアッシリヤに滅ぼされ、多くの民はアッシリヤに連れて行かれたが、後に帰還が許され、その時から民は、ゲリジム山で礼拝をささげるようになったのです。南ユダ王国の、エルサレムを礼拝地とした向かい方とは完全に断絶したのです。
* どちらでの礼拝が、唯一なる神をあがめる場所として正しいのか。彼女は、単なる身贔屓による受けとめ方を正しいと思うのではなく、素直な疑問としてどちらが正しいのか、ずっと心に引っかかっていたのでしょう。
* イエス様を神から遣わされた預言者だと、何の疑いもなく信じるようになった彼女は、霊が目覚めた者として最初に大事にしなければならないのが礼拝だと気づかされ、この当時において礼拝場所は礼拝の重要な要件であったので、どちらが正しいのですかと問うたのです。
* その疑問に対するイエス様の答えは、これまでの礼拝観念を一新する驚くべきものでありました。それは、サマリヤでもユダヤでも受け入れられない観念で、新しい時代の幕開けが今始まった。それはゲリジム山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時代が到来したと言われたのです。
* どこにでもおられる遍在者なる神をあがめる礼拝が、今この時から始まった。それは宇宙大の礼拝であります。これまでは、神はエルサレム神殿に神の臨在を示されてきたが、もはや神の臨在は場所に限定されず、人のおる所どこにあっても神が臨在される所であり、神を礼拝する場所になると言われたのです。
* イエス様は、彼女に対して2つの点を教えられました。第1は、ゲリジム山での礼拝は、神が臨在される場所ではなかったこと。救いはユダヤ人から来るとの表現で、サマリヤ人の信仰の向かい方は,モーセ5書しか受け入れていなかったがゆえに、神のお心の深みが見えていなかったと言い、救いの正しい受けとめ方は、ユダヤ人に示されてきたとはっきりと言われたのです。
* 第2は、礼拝場所が礼拝の大事な要件であった時代は終わり、どこにでもいて下さる神のご性質をあがめる礼拝が始まる。それは、礼拝場所が定められることはなくなり、真の神を知り、真の神が臨在し、真の神を礼拝する新しい時代が来たと言うことでした。
* この答えに対して、もはや彼女は、疑いの思いを抱かなかったのです。それどころか、長年の疑問から解放され、どこにでも臨在して下さる神の驚くべきご性質をそのまま受け入れたので、霊が育てられたのです。霊が育つのは時間によるものではなく、そのまま受け入れることにあるからです。
* 23節の終わりの方で、父はこのような礼拝する者たちを求めておられると言われました。このようなとは、今いる所が神の臨在して下さる所、そこが礼拝場所だと受けとめて、遍在者なる神の前に立とうとする礼拝のことで、父はこのような礼拝する者たちを求めておられると言われているのです。
* これだけではなく、彼女が疑問に思っていなかった礼拝のあり方まで教えられ、サマリヤでもユダヤでも、いかに多くの人々が、正しい礼拝のあり方を知らないで、神が目を背けておられる礼拝を平然と行っていることを、暗に示されるのです。
(3)霊なる神を仰ぎ、神と向き合う礼拝
* 礼拝において、まず意識しなければならないことは、神は霊であるという真理だと言われたのです。これは、神の本質的なご性質が霊であると言われたのです。礼拝する者にとって、神の前に立つ時、神のご性質を無視してはなりません。
* それでは、霊とはどのような意味なのでしょうか。語義では風とか、息とか、呼吸などの意味を持っています。すなわち、すべてのものに命の息を与える生命力の根源なるお方という意味で、神は霊であると言われたのでしょう。
* それ故、神は人間をお造りになった時に、神と向き合うことのできる命の息を吹き込まれ、(創世記2:7)人間を、霊を持つ存在とされたのです。他の動物は、神と向き合う命の息を持った人間のために造られた生き物ですから、神の前に立つようにはされなかったのです。
* ということは、人間にとって、神の本質的なご性質が霊であると認識して、神の前に立つことをしないならば、それは他の動物と同じレベルとなってしまうのです。言うならば、神と向き合うように吹き込まれた命の息(霊)が働かない人間は、神の造られた人間ではなく、単なる一動物でしかないと言うことです。
* それ故礼拝者は、命の息を吹き込まれた生命力の根源であられる霊なる神を見上げ、御前に立つことが人間として当然のことであり、命の根源と結びついている者とされた幸いを覚えながら、霊なる神を礼拝する者とされているという強い意識を持つように、イエス様は語られたのです。
* このように、神の本質的なご性質が霊なのですから、礼拝する者のあるべき姿は、霊とまこととをもって礼拝する姿を現す必要があると言われたのです。このイエス様のお言葉の背後にある思いをよく理解している必要があります。それは多くの礼拝者に、この霊とまことによる礼拝が見られないという現実であったのです。
* それでは、礼拝者が現す必要があると言われている霊とまこととはどのようなあり方を指しているのでしょうか。分かりやすいようでいて分かりにくい言葉です。これは単に、真心を持って礼拝をしようというような、礼拝者の誠実さを求めるような勧めではありません。これを理解するために、2つの言葉を別々に考えて見ましょう。
* 霊をもってとは、霊によって、あるいは霊で礼拝するという意味です。神が人間の内に吹き入れられた命の息によってできた霊、それは、神と結びついている部分であり、神から流れてくるものを受け取っていくことのできる部分です。これによって礼拝するとは、神と向き合うように造られた霊によって、命を吹き込む生命力を持っておられる根源者である霊なる神をあがめ、拝するということであることが分かります。
* ここに、礼拝の本質が明確に示されているのです。神の前に立ち、神と向き合う霊なる存在として造られた人間が、その目的どおり、自分に命を吹き込んで下さった霊なる神を仰ぎ、神と向き合う姿を現すことが礼拝なのだと言うのです。
* しかし、多くの礼拝と称するものは、肉の心を持った人々の集まりの中においてささげているものですから、肉の心が働き、人を意識し、人を前に置いたものとなり、人と向き合い、人の目を意識し、人の耳が気になり、形だけとなり、霊で神を仰いではおらず、何重にも覆われた罪の心の層から出る肉の思いで礼拝をささげ、それで礼拝しているつもりでいるのです。
* イエス様は、サマリヤの女の人に対して、今開かれたあなたの霊で、霊なる神を仰ぎなさい。それがあなたのなすべき礼拝だと言われたのです。
* イエス様は、霊でと言うだけではなく、まことによってと付け加えています。これは、真理とか真実という意味ですから、うそのない心でという意味であることが分かります。
* ここでは何がうそだと示されているのでしょうか。それは、自分に命の息を吹き込んで下さった霊なる神を意識しないすべての礼拝は偽りであり、命なる神と結びついた者の礼拝ではないと言われているのです。
* すなわち、「霊とまことによって」という言葉の意味する所は一つのことで、神と結びついた霊なる存在とされた者として神を仰ぎ、神から流れ込んでくる命の恵みを受け続け、霊を持つ存在とされていることを喜び、霊が育てられ、養われていくことを信じて、主を讃美し、祈り、御言葉に触れていくことが礼拝だと言われたのです。
(結び)霊が開かれ始めたサマリヤの女
* イエス様が、サマリヤの女の人に示された礼拝についての教えは、非常に重要な、キリストによってもたらされた新しい時代の幕開けとしての神の真理が示されており、後の信仰者にとって欠かすことのできない御心になりました。
* 自分の霊が覆われたままでは、霊とまことによって礼拝はできません。にもかかわらず、霊が覆われたままで、肉の心で信仰を持っていると思い込み、人を前に置いて礼拝し、信仰者らしい歩みをしていると思っている人がいるのです。イエス様も、エルサレム神殿での命のない礼拝に失望しておられたことでしょう。
* イエス様は、私が来たことで新しい礼拝の時代が到来した。これまでの準備の時は終わった。神は遍在者であられるから、どこでもいい、今いる所が神の臨在して下さっている所であり、そこが霊とまことを持って礼拝をささげる場だ。覆われた罪の心から解き放たれて、神が吹き入れて下さった霊でもって、霊なる神を仰ぎ、神から流れ込んでくる命の恵みを受け続けよ。それが神の求めておられる霊とまことをもって行う礼拝だと言われたのです。
* サマリヤの女は、その意味を少し分かりかけた所だったのでしょう。サマリヤでも伝えられていたメシヤ来臨について触れ、その方が来て下さった時に、すべてが実現するのですねと問うた時、イエス様は、この私がそうだ、今がその時だと明言されたのです。
* もはや、場所にこだわらなくてもいい、形式がどうだこうだと考えなくてもいい、罪の心から解き放たれた霊をもって、霊なる神を仰げばいいのだ。彼女はおぼろげながらであったと思われますが、お言葉を受け取ったのです。
* 人の霊は、そう簡単には開かれないと思うのに、彼女は、自分のすべてをご存知であるとの神が全知であられるご性質に触れた時、霊を覆っていた罪の心はこじ開けられて霊が覗いたのです。
* 彼女が、人間的に素直だったわけではありません。知恵に優れていたわけでもないでしょう。ただ彼女の霊は死んではいなかったということです。神が吹き入れられた霊には驚くべき力があるのです。
* 人の思いが強ければ、霊はなかなか開かれません。どれほど御言葉に接していても、頑丈なよろいのように、肉の思いの強さで霊は閉じ込められたままです。そうすると霊は力を発揮することはできないのです。
* その人にとって、ありの一穴となる砕かれる部分があるならば、霊は開かれ、神からの命の恵みが流れ込んできて霊が勢いづき、人の前に立たず、神の前に立ち、神と向き合う霊なる存在としての歩みが始まり、その礼拝を神は喜んで受け入れて下さるのです。