(序)奇蹟の扉が開く驚き
* サマリヤの女の人の姿を見る時、短時間の導きでここまで大きく変わり、ここまで積極的に行動に移すようになるとは、びっくりさせられます。
* それまでは閉鎖的な生き方しかしてこなかったのに、霊が開かれることによって別人になったのです。霊が開かれるということは、今まで閉じていた奇蹟の扉を開くようなものだと思わされるのです。
* いつまで経っても霊が開くことはなく、大きく変わることのない人は、信仰者の中にも多いのです。それは、その人の内に、変わろうとしない強力なブレーキを持っているから、簡単には変わることはないのです。そのような人には奇蹟の扉はないのでしょうか。
* すべての人は、霊が開かれさえすれば必ず変わります。そのためには、強力なブレーキである世の知恵、世において身につけた思い込み、常識などを取り外すならば、神によって大きく変わります。変わらなければ神との結びつきを頂いて生きることはできないからです。
* 霊が開かれ、大きく変わったサマリヤの女の人は、そこからどんな言動を表すのか、そこに焦点を当てた今日の内容をご一緒に学んでいきましょう。
(1)神に動かされるまま行動した人
* イエス様とのわずかな時間の会話の中で、閉ざされていた霊が開かれ、更に育てられていく経験をしたサマリヤの女の人は、イエス様から聞いた礼拝についての驚くべき教えに心が躍り、メシヤ来臨について触れると、この私がそうだとの間髪を入れない宣言を聞き、心に迫るものを感じたのです。
* この言葉を聞いた時、おぼろげながら、この方が昔から約束されていたメシヤなのかもしれない、そう思ったのです。その時、数人のユダヤ人男性が近づいてきたので、自分の内側に湧き上がってきた思いを抑えることができず、重たい水がめをそこに残して急ぎ町に帰ったのです。
* なぜそれ以上イエス様に、メシヤであることを再確認しなかったのでしょうか。イエス様が明言されたことによって、後は、ボールは彼女の方に投げられ,信じるか信じないか、その判断を任されたのです。
* あれほど心が躍り、本当にメシヤではないかと思ったにもかかわらず、最後の最後、確信し切ることができない部分を残していたので、その時に彼女の取った行動は、今まで避けていた町の人々の所に行って、「わたしのしたことを何もかも言い当てた人がいる。来て見て下さい。この人がメシヤかもしれない」と伝えることだったのです。なんと不思議な行動を取ったものです。
* 彼女はどのような思いで町まで急いで帰ってきて、普段付き合いのない人々に、このことを伝えたいと考えたのでしょうか。口で言い表し、人々の反応を見ることによって確信を得たいと思ったからでしょう。
* この方がメシヤであると確信することが、彼女にとってどんな意味を持っているのでしょうか。それは永遠に渇くことのない生ける水をこの方から頂くことができる。それがどんな水か明確に分からなくても、私の人生を根底から造り変えるほどの驚くべきものであるとの思いがあったのでしょう。
* 他の人に伝えるということが何を意味するのでしょうか。ここで彼女が、他の人たちのことを思って伝えたとは思えません。ただ自分の心の内に燃えた思いを何とか示し、他の人の反応も見たいと思ったからでしょう。ここに、霊が開かれ始めたことによって引き起こされた連動とも言える行動であったと見ることができます。
* まず、自分が受けた心躍る経験を、誰かに伝えずにはおれない思いになったのだろうと考えられます。それは、心にあふれる思いを人に伝えることによって、自分の思いを確認し、落ち着いてその思いを整理することができると考えられるからです。
* 彼女は、この思いを自分の内側だけにとどめず、それを人に伝えたいと思ったのです。それがたとえ、日頃付き合いのない町の人々であろうと、自分を見下している人々であろうと、この時には何一つ気にならず、伝えずにはおれなかったのです。
* この意味で、彼女は結果を考えず、自分がどれほど驚いたか、その事実を知ったら、あなたがたもきっと驚き、私と同じように、この方はメシヤかもしれないと思うに違いない、そう考えて伝えたのでしょう。
* ここに見られる彼女の行動から感じさせられるのは、霊が開かれ始めると、これまで縛られていた人の目を意識しなくなり、神に動かされるまま行動し、神の示しを確認し、確信したいという強い思いに動かされるという霊的行動原理が働くということです。
* もしこれが、神によって動かされたものでないならば、彼女はあまりにも状況判断のできない衝動的な人間でしかなかったというしかないでしょう。状況判断ができなかったわけではなく、霊によって動き始めたので、世的状況を隠されたのでしょう。
* もし、神によって動くように働きかけられたとしても、霊によって動き始めることをせず、世の常識、感覚が強く働いたならば、これまでと同じようにバカにされるだけだと思ってしまうので、町の人々に伝えることなどしなかったでしょう。それはあまりにも自分を傷つける可能性のある無謀な行為だと分かるからです。
* 彼女は、すべてが分かった上で、すべてを確信して、その驚きを伝えたのではありませんでした。その信仰は、まだほんの入り口にしか過ぎなかったでしょう。しかしそれを確認し、確信したいという霊的飢え渇きの思いが強かったので、神によって動かされ、町の人々に伝えずにはおれなかったのです。
* 神が人の思いを導き、動かされるという事実を、私たちは理解し、経験しているでしょうか。これを経験することができないなら、御言葉に触れることがあっても、力として受けとめず、人間の知性で受けとめてしまい、霊は活動しないままとなってしまいます。
(2)直接心の満たしを得る方法
* 弟子たちは、イエス様が、サマリヤの女と話しておられたのをいぶかしく思い、その女が急いで町の方へ行くのを見て不思議に思ったが、その時にイエス様から放たれていた威厳と輝きとを感じていたので、そのことを尋ねることすらはばかられたのでしょう。
* ユダヤ人から言えば、半異教人であるサマリヤ人に対して、しかも教師が女性に話しかけることは、宗教的に汚れると考えていたユダヤ教的考えを当然のように受けとめてきた弟子たちにとって、この時のイエス様の行動は、不可解としか言いようがなかったが、それを問うことすらできなかったのです。
* ここに見られる弟子たちの思いから、彼らの行動原理を見ることができます。それは、神の御心を小さくしか受けとめることのできない思い込みを持っていた彼らの信仰は、霊を閉じ込め、人間的知性、常識(その時代における信仰常識)に縛られているので、この部分における神の御心を理解することも、受けとめることもできないのです。
* この当時のユダヤ教指導者たちは、思い込み信仰の中に自分の霊を閉じ込め、すべてのユダヤ人に対しても、それを強要し、思い込み信仰に立つように教育し、導いたのです。
* その姿をイエス様は、いかに恐ろしいことかを語っておられます。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたはわざわいである。あなたがたは一人の改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする」と。(マタイ23:15)
* 弟子たちも、イエスさまの傍にいながら、小さい時からの思い込み信仰が邪魔をして、イエス様の行動を理解することができなかったのです。本来ならその御思いを理解し、受けとめようとして、イエス様の教えを乞い、その信仰を受け取って行きたいと願うのが筋なのに、いぶかしく思いながら尋ねることもしなかったのは、イエス様に対する信頼が不十分だったと言うしかないでしょう。
* イエス様は、この機会を、サマリヤの女やサマリヤの人々のためだけではなく、弟子たちの思い込み信仰を矯正し、神の御心に沿って歩む信仰者のあるべき姿を教えるよい機会だと考えておられたので、彼らが封印した疑問を受けとめ、食事についての会話から教えていかれるのです。
* 弟子たちが後から来たのは、8節において、弟子たちだけで食物を買いに町へ行っていたとありますから、食事を買い求めて帰ってきた所であったのです。これまでもみんなで一緒に食事をしてきたので、サマリヤおいても普通のこととして買い物に行ってきたのでしょう。サマリヤの市場における食事の買い物に対して、何の問題意識もなかったのか、そのことについては全く触れられてはいません。
* 著者ヨハネの関心事は、食事を勧めた弟子たちに対して、イエス様は、この話題を用いて霊的な事柄について教えようとされ、弟子たちの中にある思い込み信仰から解放されて、神の御心を何よりも重んじる信仰へと転換していくように導こうとされたのです。
* ただここでの食事についての会話は、少しこじつけて語られているかのようにも見え、分かりにくい部分があるのですが、ある一点に目を向けさせようとされているイエス様の思いを理解すると、ここに示されている意図が見えてきます。
* そのある一点とは、2つの言葉から考えてみる必要があります。「私にはあなたがたの知らない食物がある」という言葉と、「私の食物というのは、私を遣わされた方の御心を行い、そのみわざを成し遂げることである」という2つの言葉です。
* これは、イエス様の空腹を満たす食物のことを指しているのではなく、霊を満たす食物のことだと分かります。それでは、肉体の空腹を満たす食物はどちらでもいい、不要だと言っておられるのでしょうか。そうではありません。ただ空腹の満たしがない状態でも、心の満たしはあり得ると言われたのです。
* 食事というのは、ただ空腹を満たす意図だけで摂るものではありません。空腹を満たすということは、身体だけではなく、心も満足するのです。その意味で食事を摂るということは非常に重要なことです。空腹を満たすということは、健康維持と心の満たしのためであるからです。
* この時イエス様の場合、空腹は満たされてはいませんでした。しかし、神の御心を行い、そのみわざを成し遂げられたことによって、心の満たしを感じられたのです。
* 空腹の満たしという方法からだけ、心の満たしを得ることができるのではなく、直接心の満たしを得る方法が別にある。それが御心を行い、みわざを成し遂げることだと言われたのです。弟子たちはまだその意味が飲み込めず、食事を誰かにもらわれたのかと考えたのです。この時の弟子たちの思いをもう少し考えてみることにしましょう。
(3)まく者も刈る者も共に喜ぶため
* 弟子たちもすでに霊が開かれ、心躍る経験をしてきた者たちでした。(1:41,49)しかも、この方はメシヤだと信じて従っていたのです。しかしそれだからと言って、霊のすべてが開かれたわけではなく、まだ一部分だけだったので、なお思い込みの強い部分は開かれてはおらず、罪の心に覆われたままでありましたから、イエス様がなぜサマリヤの女と話しておられたのか,考えることもできなかったのです。
* そこでイエス様は、思い込み信仰が、神のお心を行わせず、みわざを成し遂げさせない妨害物であるということを、具体的な比喩を用いて示されるのです。
* この近郊に麦畑があったのかもしれません。それを見ながら、あなたがたが諺によって言っているように、刈り入れ時がくるまでは4ヶ月あると。確かに種をまき4ヶ月の時を経なければ実を結ばないでしょう。しかし、霊的な事柄は、それとは全く法則が異なっている。目を上げて畑を見なさい。はや色づいて刈り入れを待つ状態になっている、と言われたのです。
* サマリヤ人は救われるはずがないとそう思い込んでいるあなたがたは、もしそんなことがなされるとしても、もっと先のことであると考えているだろう。それはユダヤ人に救いが広がっていないのに、サマリヤ人に救いがくるはずがないと思い込んでいる考え方は、それは、神のお心をないがしろにすることだよ。
* 霊的な畑の状態を霊の目で見てごらん。もう色づいて刈り入れを待っている状態なのが見えるはずだ。こう言って、サマリヤ人たちが飢え渇きの心を持って、メシヤを待ち望んでいる状態であることを示されたのです。
* しかも、刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めているとの表現で、実がなった麦を刈る者は、これまでの労力の報酬を受け取っているというたとえを用いて、霊的な収穫をする人たちは、その報酬を受けて、永遠の命に至る実を受け取って喜んでいると言うのです。
* これは、思い込み信仰を取り外して、神の心のまま、導きのまま進む者は、霊的な収穫を得ることができると教えられ、異邦人の救いということが分かっていない弟子たちに対して、異邦人たちを刈り取る作業が、後に必ず起きると預言しておられるのです。
* 多くの学者たちが言っているように、伝道の心構えは、いつが神の時か分からないから、怠惰にならず、今が刈り取りの時期であることを悟って、永遠の命に至る実を収穫していく時であると受けとめよ。キリストがすでに種をまかれたから、神のわざとして刈り入れよという意味で言っているのではありません。
* 弟子たちには異邦人(半異教人であるサマリヤ人も含めて)の救いということすら、分かってはいないのです。しかもユダヤ人的思い込みが彼らの内にもしっかりと入り込んでいるのです。そんな彼らに対して、思い込み信仰を取り外させるために、ユダヤ人の救いと共に、異邦人の救いも刈り入れる時が迫っている、そのことを悟って刈り入れる者は、永遠の命に至る実を報酬として受け取っていると教えられたのです。
* 更にもうひとつの当時の諺で、37節「ひとりがまき、ひとりが刈り取る」という言葉を取り上げ、御言葉の種をまく者と、永遠の命に至る実を刈り取る者とは別だという諺は本当のことだと念を押されたのです。
* この諺を用いて労苦しても刈り取ることができなかった人と、労せずして刈り取りの恵みにあずかる人がいる。しかし刈り取って収穫した者が、能力のある人、実績を上げることができた優れた人だというのではなく、労苦しただけの人も、実績を上げた人も、共に神に用いられた者に過ぎず、すべては神が時を定め、御心に沿ってみわざを進められた結果に過ぎないことを示そうとされたと分かるのです。
* そのことが36節で、まく者も、刈る者も共々に喜ぶためであると言われている意味であり、種まきの働きも、刈り取りの働きも神に与えられたその人に応じた役割であって、共に神のみわざが進められるために用いられていることを知って喜び合うことができると言われているのです。
* 神の定められた時に、神に用いられる働きをするためには、思い込み信仰から解放されている必要があります。神の御心がなることだけを考えよ。それが弟子としてのあなたがたが表す姿であると教えられたのです。
* 私たち信仰者の内側にも、人間の知性や常識という思い込みが、開いた霊を再び閉じ込めようとする要素だと知っている必要があります。私たちの思いによらず、神の御心が成ること。このことだけを願う歩みが、弟子としての歩みだと確認する必要があります。
(まとめ)なお残っている思い込み信仰の矯正
* この箇所は、霊が開かれ、心躍る経験をし、その信仰に更に確信を得ようとして、自分の置かれている町での立場を忘れたかのように、飛んで行って心踊る経験をそのまま脚色なしに伝えた女性の話です。
* 伝えることが、自らの思いを整理することになり、この方がメシヤかもしれませんと伝えることによって、自分の信仰を見つめなおそうとしたサマリヤの女の信仰と、すでに霊が開かれ、心躍る経験をしてきたにもかかわらず、今もなお思い込み信仰から解放されていなかった弟子たちの信仰とが比較されている箇所だと言えます。
* 弟子たちも、過去において心躍る経験をし、霊が開かれた者として、イエス様につき従っていたのです。にもかかわらず、思い込み信仰が、開かれた霊を再び閉じさせようとし、サマリヤを通らなければならなかったとお考えになって通られたイエス様のお心を考えようともしなかったのです。
* その思い込み信仰から解放し、神の御心に重きを置く信仰へと育てるために、サマリヤを通られ、異邦人の刈り入れの時が来ようとしている様を見させようとされたのです。そしてこの点においても霊が開かれた者となるように働きかけておられるのです。
* このことは私たちの信仰においても経験させられていくようにされています。私たちの内側になお残っている思い込み信仰が、御心に沿う弟子信仰の歩みを妨げているという事実を見させられ、神の御心を第1に置くように導いて下さっているのです。肉の思いにこだわらない信仰に立つ重要さを示しておられるのです。
* サマリヤの女の人の、霊が開かれた者としての素直な行動と、心躍る経験をした時のことを忘れない歩みをするように示されているのでしょう。