聖日礼拝メッセージ
2013年3月31日 更新

聖 書 ヨハネ4:39〜42   (第25講)
   題 「間接信仰から御言葉を食べる直結信仰へ」


  (序)どうして彼女の証言を信用したのか

* 霊が開かれ、心躍る経験をしたサマリヤの女の証しを聞いた町の人々は、その証しが、彼女の個人の秘密に関することを見抜かれたという他愛のない内容であったにもかかわらず、しかも、それを語った彼女が問題のある女性として、日頃接することもなかった人であったにもかかわらず、その証しに心響くものを感じて、多くの人々がイエス様の所へ駆けつけたと30節に記されてありました。

* そして今日の箇所では、多くの人が彼女の証言を通してイエス様を信じたと言うのです。これは非常に不思議な言葉です。このような、信用してこなかった人からの証言を、何の保証もなく、人間的に尊敬してきた人物から聞いたわけでもないのに、どうして人々は簡単に信じることができたのでしょうか。

* ただそのことが本当かどうか確かめようとして、イエス様の所へ行ったというのであれば納得できるのですが、信じた上で、更に神からの言葉に触れたいと願ってイエス様の所に行き、そこで直接御声に触れ、信ずべきお方であることを確認したと言うのです。

* どうして彼女の証言に、そこまで信用性のあるものだと人々は感じたのでしょうか。考えられることは、これまでの彼女の言動からは考えられない輝きというか、喜びにあふれている姿が、言葉以上に人々の心を揺さぶったのでしょう。

* それが、霊が開かれ、心躍る霊的経験であったということを、人々は知る由もありませんでしたが、内からあふれる思いが、言葉にも、声にも表れていたから、人々は耳を留めたのでしょう。

* もちろん、町の人々もメシヤを待ち望み、真理に飢え渇く思いがあったからこそ、彼女の大きな変化に目を留め、この方がキリストかもしれませんと語る彼女の言葉に、心を惹かれたのでしょう。

* ヨハネによる福音書からは、彼女がそれ以外に聞いたこと、すなわち、礼拝についての深い話や、イエス様自らメシヤであることを、明言されたことなどは語っておらず、ただ私がこれまでしてきたことを言い当てた全知なるお方であるという一点のみを人々に伝えたとあります。彼女においては、これが一番重要な内容と受けとめていたのです。

* それ故、その思いが心の中にあふれ、神によって動かされるまま、世の思いから解放され、人にどう思われるかと思うこともなく、人々に触れられたくない自分の内面を言い当てたお方だと証言したのです。

* なぜ彼女は、世の思いから解放されて証言者となることができたのでしょうか。このお方は私の罪、私の弱さ、私の孤独感、空虚感などすべてを知って下さっているという深い慰めを得たから、人々の視線が気にならなくなったのでしょう。

* 人からの視線になお心を捉われている人は、神に知って頂いているという深い慰めを、まだ十分に得ていない状態だと言うしかないでしょう。(Tコリント8:3)


  (1)メシヤ待望の思いが強かったサマリヤ人たち

* 彼女の証言を疑わず、そのような人間の内面や、してきたことについて言い当てることができるお方は、彼女の言う通りメシヤに違いないと信じたのです。このように信じることができたのは、町の人々の内面にどのような思いがあったかを推測することができます。

* 長年ゲリジム山で礼拝をささげ、モーセ律法を重んじて歩み続けてきた神信仰でありましたが、ユダヤ人からはそれは正統な礼拝ではないとあからさまに言われ、エルサレム神殿でささげられている礼拝とは別物と見られ、異教扱いされてきたサマリヤの人々にとって、これでいいのだろうかという思いはたえず付きまとっていたことでしょう。

* モーセ5書以外の預言書などを受け入れていなかったサマリヤ人たちにとって、モーセ5書に記されているのは、まだ十分に輪郭のはっきりしないメシヤ預言でありましたが、メシヤが来て下されば、すべての正しい解答を示し、信仰を導いて下さると信じていたのでしょう。

* そこに、今まで不品行な女だと見ていた彼女の証言ではありましたが、「私のしたことを何もかも言い当てた人がいる、この方がメシヤかも知れません」と語った言葉は、誰が証言したかということをすべて忘れてしまうほどのショックを与える内容だったのでしょう。

* それは、これまでの礼拝では満たされない思いが強く残っていて、礼拝が形だけになっている危機感をうっすらと感じていたのでしょう。礼拝についての思いは、彼女と同じようなものだったと考えられます。彼女が言ったように、「キリストと呼ばれるメシヤが来られたならば、一切のことを知らせて下さる」と思っていたのです。

* その意味では、ユダヤ人と異なって、メシヤ待望の思いが強かったと考えられます。神は、ユダヤ人たちの礼拝や信仰を問題視しておられたが、ユダヤ人たち自身は礼拝や信仰に問題意識を感じてはおらず、この国を独立させてくれる政治的メシヤを期待していましたが、サマリヤ人たちは、礼拝、神信仰のすべてを教え、知らせて下さるメシヤを待ち望んでいたのです。

* ユダヤ人たちも、多くの人がイエス様を信じたと記されてあります。(2:23)しかし、イエス様は彼らの信仰を信用されなかったのです。しるしを見て、政治的メシヤになる力があるかどうか判断して。しるしを現す力があると信じただけだからです。

* サマリヤの町の人々はどうだったのでしょうか。確かに彼女が語った「自分のしたことを何もかも言い当てた」という驚くべき特別な能力を聞いてイエス様を信じたのです。しかし著者ヨハネの書き方は、イエス様はその信仰を信用しておられるように描いているのです。

* と言うのは、ユダヤ人たちは、自分の目の前でしるしがなされることを求めたけれども、サマリヤの人々は、彼女のことを言い当てたなら、この私のことも言い当てて欲しいとその特別な能力を目の当たりにしたい欲望を突きつけなかったのです。彼女のことだけで信用したのです。

* これは、サマリヤの人々は、しるし信仰に立っていなかったことが伺えます。彼らは確かにモーセ5書を受け入れていただけですから、無知な所はありましたが、メシヤを人間的願望によって待ち望んでいたのではなく、神の約束として待ち望んでいたのです。

* しかしユダヤ人たちは、メシヤ待望を、ローマから独立させてくれる王として求め、人間的願望によるものに引き下げてしまっていました。これが彼らの信仰における大きな歪みとして出てきたのです。

* 信仰の歪みは簡単には直りません。一度歪んだ信仰が正常に戻るのは至難の業です。だから、イエス様が自分たちの思い通りにならないと離れていき、挙句は十字架につけてしまったのです。


  (2)後の時代に展開される宣教準備の働きとして

* 証言した女の人の言葉を聞いて、そのようなお方であるなら、間違いなくメシヤだと信じた人々は、急いでイエス様の下に行き、ぜひこのサマリヤに滞在して下さって、多くのことを教えて下さいと願ったのです。

* イエス様はその申し出に快く承諾され、一泊され、耳をそばだてて聞こうと飢え渇いて求めている人たちに応えられ、彼らの疑問を解き明かし、丁寧に教えられたので、イエス様が世を救うために来られた方であることを疑わないで、喜んで受け入れたのです。

* ここまで飢え渇き、素直な信仰を現し、霊が開かれ始めた多くの人々の姿を見られたのでありますが、イエス様は、ここの所に宣教の拠点を置こうとはされませんでした。たった足掛け2日だけで去ってしまわれ、再び来ようとされなかったのですがそれは一体どうしてなのでしょうか。サマリヤ人たちに対して偏見を持っておられなかったのに、そのあたりは全くなぞです。

* イエス様は、歪み信仰を持ち、なかなか霊が開かれようとしないかたくななユダヤ人に目を向けておられたのは、メシヤはご自分の民に遣わされた(1:11)という神のお心に沿った働きのために来られたからでした。

* それでは話を戻しますが、サマリヤの人々は、イエス様から多くの真理を聞きたいと思って、滞在して下さるようにと願ったのですが、そこでどのような話がなされたのか、著者ヨハネはその内容について全く触れようとはしませんし、その時弟子たちがどのような思いでイエス様の宣教を見ていたのか記そうともしないのです。この点でも著者ヨハネは、結果だけを記して、その内容に触れようともしなかったのです。

* これは、福音を興味本位の内容として記そうとせず、イエス様によるサマリヤと異邦人への宣教については、後のために準備されただけで、聖霊が遣わされた後の弟子たちの働きの場として、用意されただけであることを示しているのでしょう。(使徒1:8)

* サマリヤの人々に対して話された内容が分からないのは残念ですが、イエス様から真理の御言葉を聞き、そこに何の疑いも抱かないで、この方は世の救い主だと信じることができたのです。

* サマリヤの人々が、メシヤとしてのイエス様を世の救い主だと信じたというのですが、それはどのような意味で信じたのか考えてみる必要があります。

* 世という言葉は、著者ヨハネが好んで用いた言葉であります。世とは、神によって造られ、罪を犯したことによって堕落して神の作品ではなくなり、神の裁きの手の中に置かれていたのですが、神の作品として回復させるためにキリストがあがない主として遣わされた所(人間世界)を指しています。

* それ故、世の救い主という表現で、有罪として断罪された者を、神の裁きの手の中から解放するために、あがないのわざをなして下さるお方という意味です。サマリヤの人々にどこまで理解できていたのか分かりませんが、推測が赦されるなら、イエス様の話の中で、神の作品でなくなった罪人であることを示され、そこから救うために来て下さったのがメシヤであると受けとめたのでしょう。


  (3)信仰者と神との間に人を置かない信仰

* この時に信仰を持った人たちは、最初に彼女の証言を聞いてイエス様の下に出向いた人たちだけではなく、イエス様に滞在を願ったことによって、その時に集まってきた多くの人々も合わせて信仰に導かれたと言うのです。

* そこで、最初に彼女の証言を聞いて信じた人たちが、彼女に言ったというのです。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いたから、このお方のすごさが分かって、信じることができるようになった」と言いました。

* ここには2つのことが考えられます。最初の女性は、なんと、多くの人々と一緒に、イエス様の下で話を聞き続けていたということです。何のためらいもなく、多くの人々の中の一人として集っていたことが分かります。

* ということは、人々と何のわだかまりもなく接している彼女の姿を見る時、イエス様に出会って、心躍る経験をした時に表した一時的な、突発的な行動だったのではなく、その時に変えられたことによって、生き方に大きな変化が現れていたと考えられるのです。

* 更に、最初に彼女の証言を聞いた町の人々が、今、私たちが持つようになった信仰は、あなたから聞いて、間接的に持った信仰のままではなく、大きく前進して、直接このお方から話を聞いてそのすごさを悟り、この方は確かに世の救い主だと確信するに至ったと、その信仰が大きく変化したことを彼女に語っているのです。

* なぜこのことを女の人に言う必要があると人々は考えたのでしょうか。私たちが、このお方を世の救い主だと信じる信仰を持つことができたのは、あなたのお蔭だといつまでも思われたくないとの思いで言ったのでしょうか。

* それとも、確かに最初のきっかけとして、あなたの証言に依るところが大きかったが、今では直接話を聞くことができて、このお方が世の救い主だと確信できるようになったのは、もうあなたのお蔭によるものではないことを伝えて、間接信仰から直接信仰になったことを報告しようとしたのでしょうか。

* すなわち、自分たちが今持っている信仰は、仲介者となったあなたのお蔭だといつまでも思われたくないというプライドを守るために言ったというより、最初のきっかけを与えてくれて感謝しているが、今は、このお方を直接見、直接触れたことによって、直結信仰になったとの確信に満ちた報告だと見るべきでしょう。

* 信仰者は誰しも、最初から直接信仰、直結信仰に立つことができるとは限りません。神と自分との間に証言者がいて、証言者を通して神を知り、神への信仰を持つようになるものです。

* それは、神の用いられた方法ですから、何の問題もありません。使徒1:8で、私たちを主の証人、主の復活の証人として立てられたことが言われていますから、主が考えられたよい方法なのです。

* しかし、信仰者は、いつまでも証言者という仲介者を、神と自分との間に置くべきではありません。もちろん伝道者であってもそうです。伝道者は、主の証人として神に立てられ、神の御言葉を解き明かす者とされているのですが、それは信仰者と神との間に立つ者としてではないのです。

* 信仰者が神と直接向き合い、神と直結して御言葉を味わい、御言葉を食べ、御言葉に養われるための手助けをする者として置かれているだけで、信仰者と神との間に立つようにはされていないのです。それができるのは、大祭司キリストだけです。

* 信仰者も、きっかけは証言者、伝道者を通して神を信じるようになったとしても、いつまでも間に立つ者として置こうとするなら、それは信仰依存でしかなく、何の益にもなりません。早く卒業することです。

* すなわち、伝道者に対しても、間に立って御言葉を取り継いでくれていると見るのではなく、神の言葉を、人間の耳に聞こえるようにする単なる拡声器だと受けとめることです。

* その意味で、私たちはいつまでも証言者を通して信じた者ではなく、今では直接出会い、直接御言葉に触れ、直接味わう者とされたとの感謝の思いを持って、最初のきっかけを与えてくれた女の人に報告しているということは、サマリヤの人たちの信仰は、イエス様のお言葉に触れて大きく変わったということが分かるのです。


  (結び)救済順序に従って働かれる主

* サマリヤの女の人が抱いた信仰から端を発したサマリヤでの信仰の伸展の様を短く描いている今日の箇所は、その内容がほとんど省略されているので,詳しい所は分からないのですが、著者ヨハネが伝えようとしている意図は伝わってきます。

* 何としてでもサマリヤを通らなければならなかったと考えられたイエス様の御思いは、後の時代における宣教の準備としてなされた神のご計画に沿って忠実になされたものであることが分かります。

* しかし、宣教の準備としてなされた宣教としては、あまりにも多くの人々が信仰を持つに至ったにもかかわらず、それを途中で投げ出すかのように2日だけにとどめ、後は立ち寄ることもなさらなかったのはどうしてでしょうか。しかも、かたくななユダヤ人たちに対しては、殺されそうになりながらもくどいほど語り続けられたのです。

* この対比から考えると、長い歴史を通して貫き通された神の御思いは、神の民を回復させることにあったと分かります。そしてその救済方法には順序があるということでした。

* まずアブラハムに働きかけられるが、イスラエルは恵みの選びからはずれ、少数の者だけが救われ、イスラエルの罪過の故に、救いは異邦人に及び、それがすべて行き渡った後、イスラエルが救われるというご計画の沿って、救済史が進められていると言うのです。(ローマ:11:1,2,7,11,25,26)

* それ故、いくらサマリヤにおいて信仰の伸展が見られようとも、イエス様は、まずイスラエルに働きかけるように導かれている神のご計画に沿って向かっておられるので、サマリヤはまだ宣教の準備段階でとどめられていたのです。

* しかし、宣教の準備段階であっても、サマリヤの人々は、イエス様を世の救い主と信じ、間接的な信仰で満足せず、直接的な信仰、直結信仰によって、形だけの信仰から驚くべき味わい深い信仰、力に満たされる信仰に立つようになっているのを見るのです。

* それに比べて多くのユダヤ人は、恵みの選びから外れるコースを歩むと言っても、それはひどいものです。見下げていたサマリヤ人の信仰よりもはるかに劣っているものでした。

* 信仰は形だけとなり、肉の思いを優先するものでしかなく、歪み信仰になっていた、その歪みを矯正しないまま、いや矯正しようとせず歩んでいるが故に、主と直結することもなく、力のない信仰で終わっていたのです。

* サマリヤ人たちの信仰から学ぶべき多くの事柄があります。彼らは自分の思いをイエス様に押し付けようとせず、イエス様のお言葉をじっくりと聞き、それを味わい、そのお言葉によってイエス様を世の救い主だと受けとめたのです。

* 御言葉は、素直に聞きさえすれば、人を変える力があり、直結信仰に生きる歩みへと導く力を持っているのです。(ヘブル4:12)

* 霊が開かれない信仰は信仰のようであって信仰ではありません。イエス様から直接御言葉を聞き、それを味わい、それを食べるなら、霊は開かれ、私たちを変える力を発揮することが、彼らの信仰の姿から教えられるのです。



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