聖日礼拝メッセージ
2013年4月7日 更新

聖 書 ヨハネ4:43〜54   (第26講)
題 「神のお言葉の偉大さを受けとめた役人の信仰」


(序)奇蹟は信仰を持たせるためではない

*普通に考えるなら、ガリラヤに行く途中で、偶然に通りがかったことによってなされたかのように見えるサマリヤでのイエス様の宣教は、最初からのご計画によるものでありました。

*その宣教は、驚くべき反響があって、ユダヤ人たちに対して懸念しておられたしるしを求める信仰もサマリヤ人たちには見られず、大きな歪みを感じさせられなかった宣教となりましたから、ここに居を構えて宣教に専念されてもいいと思われるのに、わずか2日だけの宣教で切り上げ、ガリラヤに向かわれたことが記されていました。

*こういうところにも、イエス様は宣教のために公生涯を歩まれたのではなく、命を捨てるためにおいでになられたことが伺えるのです。ただ、後に弟子たちを用いてなされる宣教に備えるためになされた準備的働きかけであったことを学んできました。

*なぜイエス様は、しるしを求める信仰に対して、それほど強い拒否反応を持っておられるのでしょうか。「あなたがたはしるしと奇蹟とを見ない限り、決して信じないだろう」と言われ、その信仰は、神の求めておられる信仰とは違うと言われながら、奇蹟をなされ、奇蹟を封印されることはなく、聖霊降臨後の使徒たちにも奇蹟を行う力が与えられ、奇蹟がなされているのを見るのです。

*これは一体なぜでしょうか。イエス様のお言葉から考えますと、奇蹟は、信仰を持たせるためになされたのではありません。奇蹟を見て信じる信仰は信仰とは言えない。見ないで信じることが大事だと示されていることからも分かります。

*それでは、奇蹟と信仰とは切り離す必要があるのでしょうか。これは非常に難しい問題です。奇蹟イコール私を愛し、私のために偉大な力を現し、私の喜ぶ助けを表して下さったと受けとめることができるので、神が私のために奇蹟を行って下さるようにと願うのです。

*しかし、出エジプトの民が示しているように、あれほど私たちを愛し、驚くべき御力を持って敵の手から私たちを助け出して下さったと喜びの声を張り上げて感謝していたのに、それは神への信仰となってはいなかったのです。というのは、その後苦しい状況の中に置かれた時、奇跡的な神の働きかけが見ることができないと、平気で神に文句を言い、不満を言い続けたのです。(出エジプト15,16章)

*それでは何のために奇蹟を行われたのでしょうか。助けを必要としている時には奇蹟を行ない、耐えることが必要なことに対してはじっと耐えさせる。それはどのような状態の中にあっても、神は必ず必要に応じて養い導いて下さるお方であるとの信仰を持たせるためなのです。

*神は、いつも私たちの状態を見、養い導く働きかけをし続けて下さっているのです。私たちは奇蹟を見て、神のすごさが分かって神を信じるようになったのではなく、神は、私たちを罪から救う力を持っておられるばかりか、救い出した上で、最後まで養い導く力あるお方として信じ、そのために必要に応じて働いて下さるお方であることを信じるようになったのです。

*信仰はここから始まるのです。しるしを求める信仰から、信仰に入ろうとする者は、神が養い導いて下さることを信じているのではなく、私の思いを満たし、安心させてくれる神を信じているので、そのようにしてもらえない時には、力不足の神として失望するのです。

*それでは、今日の箇所の奇蹟は、この役人をどのような信仰に導こうとしてなされたものか、また、そのことが今日の私たち信仰者にとっても、神への信仰とはどのようなものであることを示しているのか、共に考えてみることにしましょう。


(1)信仰を問われる2つの試験問題

*イエス様は、サマリヤを去ってガリラヤに行かれた時、そこで、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたのです。その後の45節では、「ガリラヤの人々から大歓迎を受けたとあり、矛盾しているように見えますが、これは、ガリラヤの人たちでも、特にエルサレムでイエス様のなされた奇蹟を見ていた人たちのことですから、しるしを求めている人たちであって、しるしを見なくても、神から遣わされた偉大なお方として畏れ敬う信仰によって歓迎したのではないと見られたのです。

*確かに共観福音書の方では、故郷とはナザレのことを指していると示しており、ナザレにおいて歓迎されなかった状況において、この言葉が語られているのですが、ヨハネ福音書の方では、エルサレムでイエス様の奇蹟を見ていた人々であることをあえて記していることから考えてみて、ナザレを含むガリラヤ全体を指して、サマリヤの人々との違いを対照したと言えるのです。

*この内容をあえて挿入しているのは、今はまだエルサレムにいる指導者たちとの衝突を避けようとしてエルサレムを離れ、ガリラヤにこられたのでありますが、ガリラヤ人もユダヤ人気質は同じで、しるし信仰から一歩も出ておらず、しるしを求めているだけで、メシヤを待ち望んでいたサマリヤ人たちとの違いを浮き彫りにしようとしたのでしょう。

*イエス様を歓迎したガリラヤとは、ガリラヤ湖周辺のどこかであったか明らかにされてはいませんが、その足ですぐ20kmほど離れたカナに行かれたのです。そのニュースを聞いたカペナウムに住むローマの役人が、30q近く離れたカナにまでやってきて、カペナウムに来て、息子の病気を治して欲しいと願ったのが今日の箇所の内容です。

*口語訳では、役人とだけ訳していますが、これは王に仕える役人とあり、ヘロデ・アンティパス王の家来のことであり、身分の高い人物であったことが分かります。その息子が死にかかっていたと言うのです。

*病気を治してやりたいと、これまでに彼は、当時のあらゆる治療を施したと思われますが、一向によくならず、奇蹟を行われるお方がガリラヤのカナに来られていると聞いて、そこに一縷の望みを抱いて、息子の死に目に会えなくなるかもしれないのに、急ぎカナにまでやってきたと言うのです。

*このような精神状態にある人は、何としてでも子供が元気になって欲しいその一心で歩き続けたのでしょう。その以外のことは何も考えられない状態で、そのお方がどのようなお方であるか、自分自身が救われなければならない者であるかなど考えられる状態ではなかったと思われます。

*難病を癒す名医がおられるとしか考えていなかったと思われます。ただイエス様に向かって“主よ”(49節)と呼ぶようになったことから考えますと、ユダヤ教信仰に全く無知だった訳ではなく、人間の医者というのではなく、神の下から来られた医者という意味で“主よ”と呼んだのでしょう。

*しかしどんな人であっても、霊の目が開かれれば、一瞬のうちに神と向き合わなければならない自分を見させられ、主の前に砕かれることがあるものです。この役人にとって、そのチャンスは2つの言葉をどう受けとめ、どのように行動するかにかかっていたのです。イエス様は無神論者だとして無碍に断られずに、チャンスをお与えになったのです。

*ただ息子の病気が治りさえすればいいと考える以上に何も考えられない、霊の目が開かれることのない世の人のままで終わるのか、それともそれをきっかけにして、彼自身の霊の目が開かれ、自分の前に立っておられるお方が自分の救い主であり、養い主であり、導き手であると受けとめることができるようになるのか、言わば2つの試験問題を出されたと言えるでしょう。

*この試験問題は、今日の私たち信仰者においても、問われている内容だと言えます。しるしと奇蹟を見なければ信じることができないのか、このお方の権威あるお言葉を聞いて、見ないで信じることができるか、そこに問われている内容の深みをご一緒に考えてみることにしましょう。


(2)自分の枠と神のお言葉、どちらを正しいとするか

*それでは、第1問について見てみましょう。カペナウムから、死にかかっている自分の息子の病気を治してやって欲しいと願っているこの人の思いは、子供を愛し、子供のためならどんなことも辞さない思いだったのでしょう。この人に対してイエス様は、「あなたがたは、しるしと奇蹟とを見ない限り、決して信じないだろう」と突き放すかのように言われたのです。

*なぜこのような言い方をなさったのか考えてみる必要があります。王に仕える役人にとって考えていたことは、この方の持っている奇蹟をなす力をもって、病気の我が子をあわれんで下さり、子供の命と共に家族を悲哀の涙から救い出して下さいと必死の思いで訴えており、あなたに見放されたら、子供の命は消えてしまいます。あなただけが最後の命綱ですと求めたのです。

*それ故、この役人にとって、イエス様が救い主であるかどうか、どのようなお方であるか思うこともなかったのです。それ故、イエス様が語られたことは、あなたがたにとって必要なのは奇蹟の力であり、それを用いて目の前でそのすごさを確認できるように、病気を癒して欲しいということだけだと、信仰に結びつかないしるし信仰でしかないと言われたのです。

*ここであなたと1人称で言われずに、あなたがたと言っておられるのは、これは人間全体に見られる兆候だと言っておられるのでしょう。この役人は、ローマ人であったでしょう。しるしを求めるのは、ユダヤ人だけではなく、すべての人間が持つ欲求だと見ておられるのです。

*これは、神の力を利用しようと考えている人間の欲深い願望に過ぎないと言えるでしょう。それは信仰とは言いません。信仰とは、信じて仰ぐべきお方が、私にとってどのようなお方なのか,そのお方の前に立つ自分が、どんな存在なのかを知って、主の前に心からぬかずくことだと暗に示されているのです。

*このようなイエス様のお心が見えるはずがなかったこの役人は、イエス様のそのお言葉を聞いた時、カペナウムまで行きたくない、嫌だと断ろうとしておられると受けとめたのでしょう。このときになって初めてこの方をどう呼ぶべきか、瞬時に考えざるを得なかったのです。

*彼は、ユダヤ人が神に向かって呼びかけていた“主よ”という言葉が、心の内にひらめき、今まで自分の願いのことばかりを訴えて、このお方のことを見ていなかった。このお方は私にとっては、神なるお方として敬い、その上で神の御力にすがって癒して下さるように願おうとしたのでしょう。

*呼び名は非常に重要なものです。この方は私にとってどのようなお方なのか、その呼び名に込めて呼ぶことが、真実の信仰となるのです。この役人にとってイエス様は、奇蹟を行う名医ではなく、私と私の家族を救うことのできる主だと受けとめたのです。

*もちろん、それはまだ初歩の理解でしかなく、主よという呼び名に信仰のすべての思いを込めて呼ぶことができるほど信仰理解が深まったわけではありませんが、神の力を利用しようと考えた人間の欲深い願望の域から、信仰の歩みへと大きく一歩踏み出したのです。多分、第1の試験は、通過できたのでしょう。

*王に仕える役人は、今では神なるお方としてイエス様を見るようになり、その上でもう一度病気の息子のために願い求めるのです。「主よ、どうぞ、子供が死なないうちに来て下さい」と。

*この役人の信仰はまだ初歩で、神なるお方にどれだけのことができるのか、十分に分かってはいませんでしたから、直接手を置いて癒しの力を注ぐことができるお方、地上の医者ではできなかった神の力による治療方法を考えて、イエス様にお願いしたのです。

*そこで第2の試験が提供されるのです。「お帰りなさい。あなたの息子は助かるのだ」。助かると訳されているこの言葉は、生きるという意味の言葉で、生命エネルギーを持つようになった。もう死ぬことはないとの意味です。

*彼の持っている神観念は、まだ、直接手を置いて癒しの力を注いで下さる偉大さを信じるまでで、それ以上のことは考えられなかったのです。何としてでも息子を助けたいと願っているこの役人にとって、これは非常に厳しい試験だと言えます。

*あなた自身の理解力を信じるか、それとも私の言葉を信じるか。これは、すべての信仰者にも問い続けられています。人間は、人間の知恵によって限界を設け、その範囲内の信仰しか持つことができません。自分の理解している信仰以上にはなれないのです。しかし神は、私の言葉を信じるか、自分の枠を外して私の言葉通りに信じて進むか求めておられるのです。

*このことは、ナアマンの記事によく表れています。(列王記下5:1〜14 旧526)スリヤ王の軍の隊長であったナアマンは、重い皮膚病を患っていました。預言者エリシャならそれをさえ癒すことができると聞いたナアマンは、多くの贈り物を持ってエリシャの所に行ったのです。

*しかし、エリシャは出てこないで、使者の伝言として、ヨルダン川で7度身を洗いなさいと聞いただけでした。ナアマンは、手を置いて癒してくれるものと考えていたので、こんないい加減な扱いは許せんと腹を立てて去ろうとしたのです。

*その時、そんなに大変なことではないのですから、言われた通りになさったらいいのではありませんかと言った僕たちの言葉に、耳を傾ける柔らかい心を持っていたから、ナアマンはヨルダン川に7度身を浸してみたのです。すると、激しい痛みが引き、皮膚病が治ったことに気づいたのです。

*この記事は、自分の思いを正しいとするか、神のお言葉を正しいとするか、神は、私たちに迫っておられるということが分かるのです。人はともすれば、かたくなな自分の理性、理解力、知恵、感覚などという、自分の枠の中に自分を押し込めているので、その枠から抜け出ることができない人は、信仰を持つことができないのです。

*信仰から離れていく人、信仰から落ちていく人たちもすべてこのような枠の中に自分を閉じ込めている愚かさの故であることに気づいていないのです。


(3)神の偉大さが分かっていないままではないか

*王に仕える役人は、イエス様のお言葉に一瞬、そんなことがあり得るのか、子供の状態も見ず、どこに問題があるのかも分からないまま、言わば問診も、触診もしないで30qも離れたここから語られた言葉に、そのような力があるのか。もし、この方の言葉にそのような力があるならば、その偉大さを私は何も分からないままお願いしていることになる。その偉大さを信じるか信じないか一瞬の内に判断を下すように迫られたのです。

*どれぐらいの時間が経ったのか、あるいは一瞬の時であったのか分かりませんが、どちらにしても、彼が出した結論は、今までの自分の理解の枠を外して、人知をはるかに超えたイエス様のお言葉の偉大さを信じる方を選び取ったのです。

*どうして彼に、このような決断ができたのでしょうか。神なるお方を見ず、奇蹟の力のみに期待をし、その効果のみを望んでいた彼が、やっと、神なるお方を仰いで、“主よ”と呼ぶようになった所であるのに、人間の枠を超えた驚くべき言葉を、神なるお方が語って下さったからという一点で信じ、子供が癒されたという確証もないまま信じて帰途に着いたとは驚きです。

*彼の霊の目が、この言葉で一瞬の内に開いたとしか言いようがありません。私の考えていた神理解は、小さな神にしてしまっていた。神はもっと偉大で、人知をはるかに超えておられるお方だ。もし奇蹟をなさる力を持っておられる神なるお方がいると信じてすがろうとしているならば、その神の偉大さを、自分の理解という小さな枠の中に入れ込むべきではないと瞬間的に気づいたのでしょう。

*神に何の力もないと思っているならば、自分の思いの枠の中に入れ込んで、神はこの程度のことしかできないと思うのは当然のことでしょう。そのような神を信じても、何の意味もないでしょう。

*この役人が求めていたのは、死にかかっている息子を癒す力を持っておられる神なるお方の偉大さでありました。それを自分の知恵が考えられる触癒(しょくゆ〔造語〕、手を置いて触ることによって癒すやり方)に限定して、ぜひカペナウムにまで来て癒して下さいと願ったが、イエス様は遠距離癒を示され、私が言葉を発したならば、言葉は空間を超え、子供を癒したと言われたのです。

*彼は、それを確証できたわけでもないのに、確かに神であれば、そのようなこともできると主のお言葉の権威をそのまま認めて信じたのです。そして、これで子供は助かったと思いながら帰途に着いたと言うのです。なんと単純な、純粋な信仰だろうか。

*この意味で彼は、今まで自分が持っていた観念や自分の思いという枠にこだわるかたくなさのない人であったので、初歩的な信仰から一気に神のお言葉への絶大な信頼と、お言葉を頂いたことで安心して歩むという、確かな信仰へと前進しているのを見ます。

*こんな短時間で、人はそこまで信仰を確立することができるのかと思わされるのですが、自分という枠のくだらなさに気づかされた人は、霊の目が一気に開かれ、神信仰は育てられていくのです。

*カナに来るまでの間、彼の思いは重たく、どんよりとしていて、ただ間に合うようにとの思いと、願いを聞いてカペナウムまで来て下さるのかという不安な思いが充満していたと思われますが、お言葉を頂いてカペナウムへの帰り道は、その胸のつかえが降りて、早く子供の元気な姿が見たいという思いになっていたことでしょう。もしそういう思いになっていないならば、言葉を頂いただけで戻るはずがなかったと思えるからです。

*神のお言葉の持つ力を感じ取ることのできない信仰者は、いつも平安がなく、不安と恐れの中を歩み続けるしかありません。不信仰なイスラエルの民に対して、神はこんな驚くべき言葉を語っておられるのです。「イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる。『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎる時、わたしはあなたと共におる。・・・』」(イザヤ43:1,2 旧1003)

*目に何も見えなくても、何も感じなくても、神のお言葉のすごさ、その力を感じ取ったなら、この言葉を頂いた時点で私たちは最高の人生を歩ませて頂いていることが分かり、平安な歩みをすることができます。あなたは私のものだ、私が全責任を持つと言って下さっている御言葉の力が分からないなら、神のことが何も分かっていないことになります。


(まとめ)家族全員で信じるようになる

*王に仕える役人は、最初は自分の感覚、自分の思いという枠の中に自分を入れ込んで、息子の病気が治るために必要な奇蹟の力だけを求めて、イエス様の下にやってきたのです。しかしイエス様から2つの試験問題を突きつけられて、イエス様を神なるお方として“主よ”と呼び、自分が考えていた触癒という方法にこだわらず、お言葉だけで遠距離癒という、人知では考えられない癒しの方法さえ信じる者に変えられていったのです。

*しかも帰り道で、知らせに来た僕たちに出会い、息子の病気が治り、その治った時間を聞くと、それはイエス様がお言葉を発して下さった時だと確認した時、彼の喜びようは半端ではなかったと思われます。

*そればかりか、そのことを伝え聞いた家族全員が、主と主のお言葉とを信じたと言うのです。なぜ彼だけではなく、家族全員が、それまで神のことを深く考えてこなかったと思うのに、その出来事一つで、喜んだというのではなく、信じることができたのでしょうか。

*それまで信仰がなかった家庭から、信仰に生きる家庭に変換したのです。その後、家族でイエス様の所まで行ったかどうかまで記されてはいませんが、自分の枠を取り外した彼の信仰が、神の偉大さを際立たせ、神のお言葉の持つ力がどんなにすごいものか、みんなの目にも明らかになったので、全員で信じずにはおれなかった様子が描かれているのです。

*自分という枠を取り外すだけで、人は根底から造り変えられ、主と主のお言葉の偉大さを受けとめる者にされ、人知をはるかに超えた神のお言葉さえ疑わなくなるのです。この変化を頂いた者だけが平安な人生を歩むことができるのです。



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