聖日礼拝メッセージ
2013年4月14日 更新

聖 書 詩篇26:1〜12   
題 「信仰的完全さが分かって歩んだ詩人」


(序)信仰者としての自分をどのように見ているか

*信仰者と信仰者でない人との、神が見ておられる違いはどこにあるのでしょうか。信仰者はきよい人間で、信仰者でない人は汚れている。こうした違いが人間の目ではっきりと分かるならば、見分けがつくのですが、大きな違いがあるわけではありません。

*もし信仰を持って、そこまでの道徳的、社会的、人格的に大きな違いが出てくるのであれば、分けやすいのですが、時には信仰者でない人の方が信仰者よりも道徳的、社会的、人格的に優れているのではないかと思えるような場合もありますし、あまり変わらない場合もあるでしょう。

*それでは私たち信仰者は、信仰を持った自分をどのような存在だと見ているのでしょうか。いや、どのような存在だと見ていなければならないのでしょうか。このことが正しく把握されていないと、あまりにも自分の情けない姿を見させられて、これでは信仰者らしくないと、自分を責めさいなむことになる危険性がつきまとうのです。誠実な信仰者ほどその傾向が起こり得るのです。

*この詩人は、強い確信を持って、神の前に誠実に歩んできたこと、主に信頼する歩みの中でよろめくことはなかったこと、神のいみ嫌われる人々と心や行動を共にしてこなかったことなど、微動だにしない心で歩み続けてきたことを告白しています。

*詩人は、どうしてここまで大胆に確信を持って言い切れたのでしょうか。それは自分が道徳的、社会的、人格的に見ても優れていると自負していたからでしょうか。この歌全体から見て、そうは思えないのです。

*この詩人が、どういう状況の中に置かれていて、その状況の中で、このような強い確信を持って告白しているかを、分かる範囲で、その背景を知ることが、この歌を理解する助けとなり、その詩人の歌を通して今日の私たち信仰者に語りかけている、神の御声を聞き取っていく助けになると言えます。

*何時頃書かれた歌であるか知ることはできませんが、神殿での礼拝、ささげものを大事にしていた信仰者であったことが伺えます。しかし周りには、神から目を背けた不誠実な民が多くいたそんな中で歩んでいた信仰者であったのでしょう。

*詳細は分かりませんが、悪しき人たちのグループの一員として見なされ、彼らと同罪であると不当な訴えを受けていたのでしょう。そこで彼は、すべてをご存知である神に、自らの潔白を訴えている状況が考えられるのです。

*どのような理由で非難されていたのか明白ではありませんが、彼自身は、自分が潔白であり、神がそれを認めて下さると信じて祈っており、冤罪から守って下さる神への信頼を表した歌であります。この詩人が、どのような信仰に立ち、どのような期待を神に向かって表していたか、ご一緒に学んでいきましょう。


(1)元罪人に求めておられる信仰的完全さ

*詩人は、あまりにもつらい状況にあるのを嘆いて、主に向かって何とかして下さいと願い求めているのではなく、神が、ご自身の目によって正しく判定して下さるなら、人がこの私のことをどう判定しようが問題ではない。主が私の歩みを、光の中を誠実に歩んでいると見て下さっているので、この私の魂と命とを守って下さるとの確信にあふれている歌だと言えます。

*どうして詩人は、ここまで確信していることができたのでしょうか。2節には、すべてをご存知である主が、この私のこれまでの歩みをためし、試み、練りきよめて下さればと言って、3つの言葉で、私のことを調査して頂ければ分かってもらえるはずですと言っています。

*最初のためすという言葉は、調べるという意味です。2番目の試みという言葉は、テストするという意味です。3番目の練りきよめるとは、心(心臓)と、思い(腎臓)とを検分する、あるいは吟味するという意味です。

*すなわち3つの言葉を重ねることによって、この私を調べ尽くして下されば、この私があなたの御思いに誠実で、どこにも問題がないと見て下さるでしょうと言っているのです。

*この誠実という言葉は、完全にとか、欠けた所なしという意味もある言葉ですから、うっかりすると、これは律法学者たちのように、自分がいかに罪深い存在であるかという、自分の本質が全然見えていないのに、すべてが分かっているかのように思い込んでいる信仰傲慢の典型のように思える告白です。

*どこにも問題がないはずですと言うばかりか、あなたに対する私の信頼は、今まで(迷ったこと)よろめいたこともありません。あなたを失望させることは全くありませんでしたと言うのです。

*私の思いのすべてを検分して頂いても大丈夫です。心の奥底においてもあなたを疑ったり、つぶやいたり、これでいいのだろうかと不安を覚えたり、あなたを頼りなく思ったりしたことはありませんと言い切っているのです。

*信仰を持ったことによって、人間的にすべて完全な者になり得たなら、そこまで確信して言えるでしょうが、元罪人であった者が、信仰を持ち、神の赦しを頂いて義人とされたと言っても、それは、神が義人として見て下さっているということであって、現実には,罪を犯し続ける者、不誠実で、調べられると問題だらけですから、大丈夫だとは誰一人言えるはずがないのです。

*この詩人は、自分の現状が見えていなくて、このように私は、完璧な人間にされていると本気で思っていたのでしょうか。これは、信仰傲慢の思いから出た言葉のようには思えないのです。

*それでは、詩人はどのような意味で、自分を調べて頂いても私は完全な、欠けた所のない歩みをしてきましたと言ったのでしょうか。

*普通、自分の状態を見る目を持っているならば、自分の中に罪の思いがあふれており、神が目を背けられるような言動が、自分の中にもあることに気づいていたと思えるのです。なのに、あなたの目から見て、私の内には問題がないと思って頂けるような誠実さを現してきたと、どうして言えたのでしょうか。

*それは、3〜5節の内容から、そう言い得た彼の信仰が伺えるのです。そこに2つの点を見ることができます。第1は、あなたのいつくしみが、いつもわたしの目の前にあるという霊的事実を、私は見失わず、あなたの真実の愛の中にとどまって歩み続けたという点において、完全であったと言っているのです。

*詩人は、神が、ご自身の選んだ民に対してあわれみの契約を結び、そこに示されている真実の愛を表し続けて下さったということを何ら疑わず、その中に置いて頂いていることの幸いを喜び、それによって神のお心にかなった者として受け入れて下さっていると信じたのです。

*第2は、神から目を背け、空虚な言葉を平気で吐き続け、闇を愛してよこしまなことを企てる人たちとは、決して同じ所に立ちません。それは、彼らを見下して言っているのではなく、神がいみ嫌われる所に立ちたくないという信仰の思いからそのように語り、神はそれを見て下さっているという点で、完全な歩みをしてきたと言ったのです。

*それ故、ここで歌った完全に、あるいは誠実にと言うのは、人間的にすべての点で完璧で、神のいみ嫌われる所はどこにもないという、人間的な自負心から出た言葉ではなく、あわれみ深い神が、罪深さを持ったままでも信じることによって義として下さり、神のものとして受け入れて下さっているという意味で、罪深い者に求めておられる完全さを指していると言うことが分かります。

*人間的に完璧だと言うのではなく、罪深き者が表せる完全さのことです。どこまでを完全と言って下さるのか、そこには許容範囲があると分かるのです。

*すなわち、神が受け入れて下さる許容範囲内にいることが、神が元罪人に求めておられる完全さであり、欠けた所のない歩みだと示しているのです。詩人は、この信仰に立っていたからこそ、自分を人間的に問題なしと見ていたのではなく、信仰的に問題なし、神が受け入れて下さる許容範囲内にいましたと確信して告白しているのです。


(2)神が許容して下さっている範囲内に立つ

*神が受け入れて下さる許容範囲とは、どこからどこまでか、これは非常に難しい問題です。詩人の1節の表現から見ると、「わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています」と歌いました。言うならば、私の信仰は、何の問題もなく、よろめいたこともありませんと言ったのです。

*詩人は、自分の信仰が完璧で、動揺したことは一度もないと本気で言ったのでしょうか。そうではないでしょう。見えない神に信頼しているが故に、時には神が働いて下さっていないのではないか、助けて下さっていないのではないかと疑うような思いになったこともあったでしょう。それでも彼は、私は誠実に歩み、迷うことなく、主に信頼していますと言ったと考えられるのです。

*これが許容範囲の意味です。完璧でなくても、たまには動揺したり、どうして神は働いて下さらないのかと不満の思いが出たり、神の助けが見えなくて不安になったり、人を恐れたりすることも起きてきたことでしょう。それではどこまで動揺すれば、私がよろめいていないと言った許容範囲を超えてしまうのか、少し動揺があっても、すぐに信仰が回復するその時間の長短や回数がどの程度までであれば許容範囲内だと言えるのか。それが詳細に分からないのが難しい点です。

*ここで簡単な図によって受けとめることにしましょう。詩人は、よろめいたり、疑ったり、不満を覚えたりするなど、自分の思いの中に不信仰の芽が出ようとするが、すぐその芽を抜き去り、信頼を回復するならば、神は許容範囲内の状態として、誠実な歩みをしていると見て下さると考えていたのです。

*しかし、限界を超えて神に対して不信の思いを表し続け、神から目を背けて、闇を愛する生き方の方に向かってしまうならば、以前信じていたという事実すら消えてしまい、不信の輩とみなされ、神の怒りの裁きの対象にされると考えていたのでしょう。


*それでは、この詩人の場合、どのような仕方で信仰を回復させようとしていたのでしょうか。彼の場合、3つの行動を表すことにより、時折波のように起きてくる信仰のよろめきをとどめ、回復させようとしていたか、歌の中から見て取ることができます。

*その第1は、6節aで、神の前に出て、実際には当時神殿において仕える祭司の下に行って、神からの判決を聞くという祭儀を行うことでありました。(列王記上8:31,32 旧489)詩人はその時に、手を洗うという儀式を行って、自分には罪のないことを示そうとしたのです。(申命記21:6,7 旧276)

*もちろん、それは形だけではなく、神から目を背けて、闇を愛している人々と行動を共にせず、彼らの集いを憎み、主に逆らう人たちと席を共にしないと誓って、それを実行したのです。

*第2は、6b〜7節で、祭壇を巡って、感謝の歌を声高く歌ったのです。祭壇を巡るという行為は、詩篇43:4から分かることは、神の下に行くことを示す表現であり、神がこの私に何をして下さったか、その恵みが分かって感謝の声を上げたのです。

*この行為を通して、神の助けがあったことを確信し、感謝の歌をもって神に応答し、主が信頼する者のために、どんなに大きな愛を注ぎ、力を惜しまないで助け導いて下さるお方であるかを告白し、証ししたのです。

*第3は、8節で、神のおられる所を重んじ、愛しますと告白しています。エルサレムの神殿が、神の臨在を現していましたが。神のおられる所を重んじ、愛するとは、神の前における礼拝、儀式が示す神との深い結びつきを重んじ、そこに全身全霊を傾けたと言っているのです。

*これらの3つの行動は、時折よろめこうとする信仰をぐっと引き戻し、神のお心に誠実に歩む範囲内に置こうとする大きな回復力になることを知って向かっていたのでしょう。人間の弱さを知り尽くしておられる神は、元罪人に対して、人間的完璧さを求められず、信仰的完全さを求めておられることが分かるのです。

*詩篇や箴言などに全きとか、正しいとか、直きとか言う表現が多く見られますが、これらはすべて信仰的完全さ、正しさ、真っ直ぐさを示していることを理解して読む必要があります。(詩篇37:37他)


(3)信仰を持った自分の姿を受けとめているか

*詩人は、自分の歩みが、神の認めておられる許容範囲内における完全さ、正しさの中に置かれている歩みであったと大胆に告白してきましたが、それは、人間的によろめいたことは一度もないという意味ではなく、人間的に完璧でなくても、神が完全な者として受け入れて下さる範囲内に置かれていることを確信していたのです。だからすべてをご存知である神に調べられても、問題なしと見て下さると信じていたのです。

*ここでは、詩人が誰から告訴されていたのか分かりませんが、神に逆らい、人を苦しめ、傷つける人たちの仲間だと見られ、10節の表現から見ますと、賄賂を取って便宜を図った罪に問われていたのか、魂と命を取り上げないで下さいと神に願っているのです。

*汚れた人々と自分との違いを知って下さい。私は彼らのように汚れた手を持ってはいません。彼らの手は自分の欲を満たそうと貪欲な行動を表し、時には人の血を流すことさえいとわないのです。けれども私は信仰的完全への道を歩み、あなたのお心から逸れてはいませんと言って、4つの違いを明確に述べていくのです。

*その第1は、彼らは、神のお心よりも自分の思い、自分の欲の方を大事にしていますが、私はあなたのお心を何よりも大事に思っていますという思いを11節で、私は主のお心に誠実に歩んでいますと表現しています。この詩人にとって、世的な満たしがなくても、神の満たしがあればそれでいいと考えていたことが分かります。

*第2は、あなたは私をあわれみ、私をあがなって下さったという信仰に立っています。信仰を持っていない人たちは、そのような神のあわれみを知らず、神にあがなって頂くという恵みのすごさを全く知りません。しかし、この私はそれを知り、その恵みを味わっていますと、その違いを明らかにしています。

*神を知らない人たちは、神の助けを知りません。しかしこの私は、人間的に完璧な信仰を持って歩むことができなくでも、信仰的な完全さを持って主に従っているので、主のあわれみによってこの私を、神に属する者、神の大事な存在として見て下さり、愛し、守り、導いて下さる。しかもどんな時にも代価を払ってあがない取って下さると信じていたのです。

*ここでのあがないとは、奴隷状態からの解放という元の意味から象徴的な意味で使われ、苦しみや悩みから助け出して下さるという意味を表しているのでしょう.神の守りと助けの中に置いて頂けるとの強い信仰を持っていたから、信じて祈っているのです。

*第3は、12節で、このような信仰に立っているが故に、今私の足は平らな所に立っていますと言いました。信仰を持っていない人たちの足元は、たとえ世的に満たされていたとしても、不安定な、滅びという恐ろしい底なし沼が待っているが、この私の足は、平安な、安定した平らな地に立っていると確信できたのです。

*確かに、この世では、世の人々の方が巧みで、経済的に豊かで、祝福された人生を歩んでいるように見えるが、信仰者は、世的な満たしは十分でないとしても、自分の立っている所、すなわち、自分に与えられた人生は、人としてもっとも幸いで、確かで、闇がなく、永遠の命に結びついている最高の人生だと思うことができるのです。詩人は、その喜びを味わっていたからこそ、私の立っている所は平らな地だと言い得たのでしょう。

*第4は、会衆の中で主をたたえると言いました。信仰を持つということは、主によって結ばれた真の仲間を持つようになり、互いに主の助けと導きとを証しし合い、主をたたえ合うことができる。これが、神信仰の副産物だと詩人は受けとめていたのです。この4つの点が信仰を持った自分の姿だと見ていたのです。


(結び)信仰的に完全な歩みをさせて頂いているとの確信

*人間は、ともすれば人間のレベルで人を測り、自分を測ります。そればかりか、神を信じたらこのようにして下さるはずだと自分の感覚で思い込もうとするところがあります。これが首かせとなって、信仰者になってもきよい生き方ができない自分を責めたり、信仰もたえずよろめいている自分の姿に失望したり、こんな私では信仰者として失格ではないかと思ってしまう人が多いのです。

*これは、聖書の中に示されている神のお心から、元罪人が信仰を持って歩み出したら、どのようにされていくのか正しく理解しようとしていないことからくる勘違いです。この勘違いが首かせとなって、確信の持てない信仰で終わってしまう危険性があるのです。

*たとえば、全き人と記されてあると、私はその範疇に入らないと思いつつ読んでいるのです。もし元罪人に対して、神が完璧さを求められるとしたら、求められる神の方に無理があると言わなければならないでしょう。

*もかかわらず、人間の感覚、理性が100%完璧な人間性を持った者との表現として受けとめ、そのような全き人でなければ神は受け入れられないと思ってしまうのです。こうして肉の感覚で判断しようとし、正しく受けとめないようにしてしまうのです。

*しかし、この詩人の信仰理解は、人間の枠を超えた神のお心を受けとめたものになっていましたから、大胆に、私を裁いて下さい。私には問題が一つもないと分かって頂けるはずです。私の歩みは完全でした。主に信頼して、これまでよろめいたことはありませんと言い切れたのです。

*これらの表現を、人間の感覚や理性で受けとめようとしたらなら、このような表現は信仰傲慢と感じて、私にはこんな言葉はとても言えないと思ってしまうのです。これは、神のお心よりも、人間として感じる枠の方を重んじているから、信仰によってこのように告白ができないのです。

*もしこのように確信できないならば、人間の信仰は何と不安定な、確かさのないものになってしまうことでしょう。平らな地に立たせて頂いているなどと到底言えないでしょう。喜べる時はあっても、落ち込む時もあり、その波の大きさに翻弄される信仰となってしまいかねないのです。

*神が完全だと見て下さる許容範囲を知り、そこに立たせて頂いていると分かったならば、大胆に、信仰的に完全な歩みをさせて頂いていると告白し、確信していることが重要です。そうすれば、神の愛の中に包み込まれた者として、自分に失望することなく、信仰に不安を覚えることなく、神の助けと導きとを信じて歩むことができるのです。


詩篇26:1〜12(解釈訳)カッコ内は補足です

1、主よ、(あなたはすべてをご存知ですから、あなたの目で)私のことを裁いて下さい。(善し悪しを判断して下さい) 私は(あなたのお心に)誠実な心で歩んできました。 主に信頼して、よろめいたことはありませんでした。

2、主よ、(すべてをご存知であるあなたの目で)私(の歩み)を調査して下さい。また、私(がよろめかないかどうか)を試してみて下さい。私の思いと心(がふらついていないか)を検分して下さい。

3、なぜ(そう確信できる)かと言いますと、あなたのいつくしみが、(いつも)目の前にあることを(見失っていないからです。(だから)私は、あなたの真実(なお心)に沿って歩んでくることができました。

4、私は、(この地上の生活において)空虚な言葉を吐く人々と(心を)共にしません。神から隠れ、闇を愛し、よこしまなことをたくらむ人たちと行動を共にしません。

5、(神の嫌われる)悪しきことを行う人たちの集まりを憎み、また、主に逆らう人たちと思いを共にしません。

6、主よ、私は(あなたの目の前で)手を洗って、私が潔白であることを示します。あなたの祭壇の周りを巡って(感謝の供え物をささげつつ)。

7、あなたへの感謝の声を響かせ、(あなたが現して下さった)驚くべきみわざをことごとく伝えます。

8、主よ、私はあなたの住んでおられる家を、 あなたの栄光が宿っている場所を愛します。

9、私の魂を、神に逆らう人たちや、人を苦しめ、傷つける人たちと一緒に、私の命を取り去らないで下さい。

10、彼らの手は汚れにあふれており、 彼らの右の手は、賄賂で満ちています。

11、しかし、(私は彼らのそのような姿をいみ嫌い、あなたの前に)誠実な心を持って歩みます。(それ故)私をあわれみ、私をあがなって(受け入れて下さい)。

12、私の足は、(神が置いて下さった、神の守りがある)平らな地に立っています。 私は(神によって与えられた仲間である)会衆の中で主をたたえます。



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