(序)詩人の信仰的対処法
* 人間にとって恐れるという感情は、思いを不安定にさせ、平安を失わせ、心を乱させる、全く無益なだけの感情でありますが、自分で押さえつけようとコントロールできるものではなく、一度恐れの心が押し寄せてくると、その思いが過ぎ去るまでは、ただ耐えるしかないのが実情です。
* この詩人の置かれた状況は、詩人に対し悪しき感情を持って迫ってきている敵が、猛獣が小動物の肉を食いちぎろうと襲いかかってくるかのように、今にも臨もうとしていた人たちがいて、命まで奪いかねない勢いを持って迫ってきていたことが分かります。
* これは、比喩的表現だと思われますから、必ずしも武力による襲撃とは限りませんが、どちらにしても、精神的、肉体的に激しい苦痛を覚えさせ、先行きに対して恐れを感じずにはおれない状況だったのでしょう。
* そのような状況の中で、詩人はどのように対処しようとしたのでしょうか。この歌にその思いを込めて歌っています。それ故、一つ一つの表現は、単なる宗教的用語を並べただけの表現ではなく、激しい恐れに対処している信仰からにじみ出た叫びであったと言えるでしょう。
* 自分にとって厳しい戦いに思える状況の中で、自分の力によって対処するには、それを跳ね返すだけの力がないと思える時、残っている唯一の方法は、信仰によって勝利することしかないのです。その勝利ができるかどうかが、その人にとって信仰が力だと言えるかどうかにかかっているのです。
* 私たちの人生は、いいことばかりあるわけではありません。信仰を持ったからといって、ばら色の人生が用意されているわけではないのです。やはり厳しく感じ、つらく感じることが起きてくるのです。それは、精神的、肉体的に大きな負担を与えます。
* その時に、信仰によって対処し、信仰によって勝利できるように、神は助けようとして下さるのです。この詩人の信仰的対処法を学ぶことを通して、私たち一人一人に与えられている信仰人生において、恐れの感情をいかに解消し、信仰を力として乗り越えて行くことができるか、神の導きを受け取りたいと思うのです。
(1)神の力を現す3つの言葉
* 詩人の心を、恐れ脅かそうとして働きかけてくる信仰の敵である悪しき人々に対して、詩人は人間的に反応せず、信仰によって立ち向かおうとしたのです。信仰によってとは、自分の力を頼みとせず、神の力を味方にして対処しようとすることです。神の力を、詩人は3つの言葉で表現しました。まずそれを見ていきましょう。
* 第1は、「主は私の光」と言いました。もちろんこれは物質的な光のことではなく、比喩的な表現だと言えますから、精神的、肉体的な戦いの中にある時、つらい時、悩める時など、先の見えない闇の力の威力を感じさせられる時、神を見上げて進むべき道筋を照らし、その歩みを導いて下さるという意味で、主は私の光と言ったのでしょう。
* 預言者ミカもこう語っています。「たといわたしが暗闇の中に座るとも、主はわが光となって下さる」と。(ミカ7:8 旧1291)暗闇の怖さは、進むべき道が見えないことです。それ故、光なる主が、暗闇を照らし、進むべき道を示し導いて下さることによって、私はつぶされないと言っているのです。
* 神が光の根源であり、私の光となって下さるということを、戦いの最中にあっても確信することができるのか、詩人は、この信仰が、戦いに対処するための大事な武器だと考えたのです。
* 確かに信仰者は、神が光を造られ、光の根源であることは信じています。しかし、本気で、私の進むべき道を示し、導いて下さると信じているでしょうか。主が私の光となって下さるから、私は暗闇の中に置かれても恐れないと言い切れるでしょうか。
* これだけの表現で、詩人の信仰のすべてが見えるわけではありませんが、この信仰に立っている私を、誰が恐れさせることができるかと言って、恐れていない思いを告白しています。
* それはあたかも、パウロがローマ書で「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵し得ようか」、(8:31)と言って、この信仰によって無敵であることを宣言しているのと同じです。
* 第2は、「主は私の救い」と言いました。ここでの救いとは、罪からの救いという根源的なものではなく、今置かれている状況の中にあって、どんな危機的状況が襲ってこようと、主はこの私を危機的状況から救い出し、主の守りの下で憩うことができるようにして下さると信じる信仰に立っていたのです。
* 詩人が、悪の手から救い出して下さる主を信じることができるようになったいきさつは分かりませんが、神を信じ、義人として受け入れて頂いて、神の祝福にあずかる民として頂いた彼は、霊的には救い出されたが、心と身体はなおこの地上にあって、悪の勢力に迫られる中にあり、その時々においても悪の手から救い出され、主の守りの手の中に置かれる経験をしてきたのでしょう。
* この1節の言い切っている表現から考えると、悪の手から救い出して下さるだろうとの単なる淡い期待の言葉ではなく、神はこれまでも悪の手から救い出して下さり、主の守りの中に置いて下さったというその経験が、確かな信仰となっていたのでしょう。
* それ故、今追い迫ってきている悪の手からも、同様に神は救い出し、守りの中に置いて下さるとの信仰による対処をし、この点においても、主が私の味方であるなら、誰を恐れる必要があろうかと言い切れたのです。
* 第3は、「主は私の命の砦」と言いました。私の命をご自分のものとして、堅い城壁の中に置いて下さっているとの信仰が、彼に平安を与えていたのでしょう。
* 預言者ゼカリヤは、一つの幻を示されました。それは、一度完全に崩壊したエルサレムを神はあわれみ、再びエルサレムを選ばれ、そして主はこう仰せられたと言うのです。「私はその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる」と。(ゼカリヤ1:16,17,2:5 旧1311)
* このゼカリヤに示された幻と同じ信仰理解を持ったのが、この詩人の信仰であったと言えます。この私の周りに、神は火の城壁となって取り囲んで下さっている。それ故、神のお心に沿った時まで命は保たれ、生かされる。その時までは悪の手は及ばない。主が火の城壁となって守って下さるからだと信じていたのです。
* この詩人には、私の命は神のものであるから、神が私の命の時を決めておられる。その時までは悪の手は、この私の命に手を出すことはできないとの強い信仰を持っていたから、恐れることはなかったのです。それは、たとえ病であれ、災害であれ、事故であれ、すべて神の定められた命数を妨げることはできないと信じていたのでしょう。
* 詩人にとって、主は私の光であり、私の救いであり、私の命の砦であるとの信仰が、今置かれている状況にあって、信仰で勝利していくための対処の仕方であったのです。
* この信仰が、自分の内から恐れという感情を取り除き、平安を回復し、心を安定させる大事な対処法として受けとめていたのです。
* 2節では、信仰によって勝利しているならば、主の働きかけによって敵の方でつまずき倒れると言い、3節では、彼らがどんなに手を尽くして攻めてきても、私を恐れさせることはできないし、私の信仰的勝利の思いをつぶすことはできないと勝利宣言を歌っているのです。
(2)信仰が更に強められるためのディヴォーション
* このように詩人は、悪しき働きかけに対して、自分で対処しようとせず、信仰によって対処し、神が味方となって道を示し、危機的状況を乗り越えさせて下さり、ご自分のものとなった私の命を、火の城壁によって守って下さるとの信仰に立つことよって、恐れの感情を排除したのです。
* こうして詩人は、信仰によって対処する向かい方を大事にしたのですが、それだけではなく、その信仰が更に強められることを願っていたことを4節で歌っているのです。それは、生かされているすべての日々において、主の家に住むことができることだと言いました。
* 主の家に住むとは、祭司のように、実際に神殿の領域内に住むと言うことではなく、主の家とは、主が臨在して下さっていることを表す象徴ですから、そこにおいて、神との深い交わり、結びつきを頂く所であります。それ故、神と向き合い、神からの祝福で満たされ、命にあふれる交わりの時として、生かされている間、日々の歩みの最優先事項にしたいとの強い願いであったことが分かります。
* 彼は、それを具体的にどのような姿で現そうとしたのか、全く触れられてはいませんから分かりませんが、自分にとってもっとも大事な時として、今日信仰者が使っている用語で言うならば、神と向き合うディヴォーション(時間、思い、身体をささげる=献身)の時を、生活の第1の事柄としたのでしょう。
* 日毎神の御許に帰り、そこから世に送り出され、また、神の御許に帰ってくる。この向かい方を、信仰生活の基本に据えたのです。
* 神と向き合うディヴォーションの時、それは、祈りの時であれ、御言葉を読む時であれ、御心を黙想する時であれ、メッセージに触れる時であれ、上からの力にあふれる大事な時として守ることを重んじたのです。
* 詩人はその時に、主の麗しさを見たいと願い、尋ね極める時としたと言います。主の麗しさを見たとはどのような意味か考えて見ましょう。神は、目には見えないお方ですから、ここでは外形の麗しさのことではないのは当然です。それでは、主の何を見てその麗しさを受けとめようとしたのでしょうか。
* これは、主のお心や主の働きかけが、すべて神の完璧な知恵から出ている完全無欠なものであることをこの(霊の)目で見ようとし、それを尋ね極めようとしたのです。
* どうしたら、神の完全無欠な知恵から出ているお心や働きかけを見ることができるのでしょうか。すなわち、この私の上に、どのように実現して下さっているのかを見る霊の目が養われ、その体験をすることができたならば、それを自分の霊にしっかりと刻み込むこと、これが尋ね極めることだと言えるでしょう。
* それが祈りによるものであれ,御言葉を読み続けることであれ、黙想の時を持って霊が育てられる時であれ、メッセージに触れることによって、信仰が確立され、養われる時であれ、神と向き合うディヴォーションの時を大事にし、主にささげる時として向かっていくならば、そのように導かれると信じていたのでしょう。
* このようにして神と向き合う時を第1にするという、神の御許に帰るという向かい方を重んじ、そこから世に送り出され、また、神の御許に帰ってくる信仰者としての歩みが確立していくことを、主に対して真に願った詩人の思いは、神抜きで、私の歩みは一歩たりとも進めないと考えていたことが分かります。
(3)信仰的学習ができている人の告白信仰
* その向かい方をしてきた中で、確信できたことを、5節と6節において歌っていくのです。主は私の悩みを知って仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを置かれると言いました。
* これは第1に、私を、攻めてくる敵に見つからないようにかくまい、主の守りの内に置いて下さると言うものでした。
* それは、具体的にどのようなことをイメージして歌ったものか考えて見ますと、神への信頼を現し、敵を恐れないように神を見上げようとするならば、神は見えない御手でもって私を覆い隠して下さり、敵の力が及ばないようにして下さると信じたのです。
* それだけではなく、岩の上に私を高く置かれるという表現で、高き岩である神を信じる信仰によって、敵よりも上に上げ、敵の力を骨抜きにし、勝利感を得ることができるようにして下さると信じたのです。
* 6節では、それを更に強調して、今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられると言って、敵がわたしを支配しようとしてくるが、私の方に軍配が挙がり、私の方が支配者となると言ったのです。
* これは、主がきっとこのようにして下さるという期待感から出た言葉というよりも、これまでの歩みの中における主の守りと助けを思えば、今も必ずこのようにして下さるという強い確信に満ちた告白となっているのです。その意味で、これは、信仰的学習ができている人の歌だと言えるでしょう。
* 一度、あるいは何度か、信仰で対処しようとした私たちの上に、神は驚くべき御心を示し、働きかけて下さったと信じ、敵の手からも守られ、勝利を得させて下さったと体験したにもかかわらず、信仰的学習ができていない人は、次の別の苦難に出会うと、また、恐れ惑い、主が何とかして私をあわれみ助けて下さるようにと願うのです。すなわち、願い信仰から、学習を通して、強い確信に満ちた信仰へとレベルアップできないで繰り返し続けるのです。
* この詩人は、信仰的学習ができた人であったから、戦いがなくなってからではなく、戦いの中にあっても恐れないと言い切り、情勢が変化したと思えなくても、主の守りと助けを確信して、主の幕屋において喜びの声をあげ、感謝のいけにえをささげ、主をほめたたえたのです。
* 願い信仰から、強い確信に満ちた信仰へとレベルアップすることは、確かに簡単ではありません。しかし、レベルアップされないままだと、いつまで経っても信仰のスタート地点に逆戻りし、信仰は疲れてしまいます。
* 一度でも信仰によって対処することにより、神の働きかけを霊の目で見、体験したならば、それを無駄な体験として消してしまわないで、心変わりされない私たちの信頼する神は、あわれみに満ちた神でありますから、強い確信に満ちた信仰へとレベルアップさせて下さると信じて、信仰的学習をすることが大切なのです。
* 強い確信に満ちた信仰にされれば、おのずと感謝と喜びの声をあげ、主をほめたたえずにはおれなくされるのです。そのような信仰に立つ者に、サタンは入り込むことができず、手出しができないのです。
(結び)願い信仰から強い確信に満ちた信仰へ
* 詩人は、これまでの信仰体験において、信仰的学習をしてきたから、戦いの中にあっても、主に対する信仰が揺るがず、恐れはないとはっきり否定することができたのです。すなわち、恐れから解放されたと確信を持って歌ってきたのです。
* その信仰は、神との交わり、結びつきを何よりも重んじ、そのことを第1に置いて、神と向き合うディヴォーションの時を大事にしてきたから、願い信仰から強い確信に満ちた信仰へとレベルアップされ、もはや逆戻りしない信仰に立たせて頂くようになったのです。
* この時代の敵の存在は、詩人の信仰を押しつぶし、神を信じる生き方を虚しく感じさせようとする働きかけをするものだったのでしょう。今日の新約時代に生きる私たち信仰者にとって、そのすべての事柄の背後にサタンの存在があることを学び知っています。(エペソ6:12)
* サタンは、はっきりと分かる敵を立てるだけではなく、周りにいる家族や親しい者、仕事や、国や、病気や、精神的戦いなどあらゆる物を用いて、見える形でも、見えない形でも攻めてくるのです。それは、私たちの信仰を押しつぶすためであり、その働きかけは多岐に亘り、激しく、恐ろしいものです。
* しかし、私たちが神と向き合うディヴォーションの時を大事にし、その度毎に神の麗しさを見、それを尋ね極める向かい方をしているならば、信仰的学習をしている者として、どんなサタンの働きかけに対しても、恐れず、信仰によって対処することができるようにされるのです。
* 神の麗しさは、信じる者を養い育てつつ、祝福の中へ入れようとされるご自身の愛を実現なさる完璧な御心と、整然と進められる働きかけによる神の真実だと言ってもいいでしょう。神の真実は、実に深くて美しいものだと分かった者にとって、これ以上の麗しさは、神以外にないことが見えてくるのです。
* 日々のディヴォーションで,それを尋ね極めるなら、目の前に起きてくることをすべて信仰によって対処する歩みに導かれ、神が味方となって、時には敵の目をくらませて私たちを隠し、時には敵に対する勝利感を与え、時には喜び躍らせて下さるのです。
* これらはすべて、私たちの信仰を養い育て、神の御栄えを現す者にするために進めておられる、完全無欠なお心による働きかけだと信じることができるのです。
詩篇27:1〜6(解釈訳)カッコ内は補足です
1、 主は、私の(歩むべき道筋を照らして下さる)光。また、私の(すべてを危機的状況から救い出して下さる)救いである。(このことを確信しているので)私は誰を恐れる必要があるだろうか。主は(敵の手から守って下さる)私の命の砦、(このことを確信しているので)私は誰をおびえる必要があるだろうか。
2、 私の敵である悪しき者たちが、(獣のように)私の肉を食らおうとして襲い掛かってくるが、敵たちは私を攻めようとするその時につまずき倒れた。
3、 たとえ、私に向かって戦陣を張って(襲い掛かろうとしても)、私の心は恐れない。(微動だにしない)たとえ(現実に)戦いが起きて、(私を押しつぶそうとしても)なお私は、(主が光であり、救いであり、命の砦となって下さることに)信頼を置き続ける。
4、 私はただ一つのことを主に願っている。これだけを(飢え渇いて)求めている。(それは)私の(信仰)人生のすべての日々において、主の家に住むこと(ができることを)、(そこにおいて)主の麗しさを仰ぎ見、宮で主の(お心)を尋ね極めることを。
5、 なぜなら、災いの日に、主は私を仮庵の中にかくまい、その幕屋の奥に私を隠して下さる。また、(悪しき者たちの手が届かない)高い岩の上に置いて下さる。
6、 私の頭は、私の周りに群がる敵(を支配する者として敵)の上に、高く置いて下さる。私は主の幕屋の中で、勝利の声をあげていけにえをささげ、主に心からの讃美をささげよう。