聖日礼拝メッセージ
2013年4月29日 更新

聖 書 詩篇27:7〜14   (第2講)
   題 「信仰が確立した後、信仰が揺れるのはなぜか」


  (序)複雑怪奇な信仰者の状態

* 前半の所で学んだことは、自分を恐れさせ、脅かそうとしていた信仰の敵に対して、詩人は、自分の力で対抗しようとせず、信仰によって立ち向かおうとし、自分にとって神はどのようなお方であると信じていたか、3つの言葉を持って言い表すことによって、神を味方につけて、敵に対抗しようとしたのです。

* それは、これまでの神の助けによる勝利体験を、信仰的学習をしてきたことによって、強い確信に満ちた信仰へとレベルアップされ、今も戦いの中にありながらも、恐れることなく、信仰が逆戻りすることなく、神と向き合うディヴォーションの時を大事にし、乗り越えてきたのです。

* この詩が6節までで終わっていれば、確かな神信頼を持って歩み続けている信仰者としての、信仰による勝利者としての告白の歌と言うことで、力強い信仰告白として見ることができるのですが、この後、後半の7節からの歌は、これまでの強い確信に満ちた信仰にレベルアップされたはずの詩人が、一転して、嘆き訴える内容の歌に変わっているのには、大きな違和感を覚えるのです。

* 聖書学者たちの間で、あまりにも歌の基調が前半と後半とでは異なっているので、これは全く別の詩が編集の時に一緒にされたものだと考える意見も多いのですが、統一性のある歌だと主張している人も多く、意見が分かれています。

* 普通の順序で言うならば、7〜14節の後半部の嘆き訴える歌が前にあって、必死に主に訴える中で信仰による勝利、神からの助けを確信した者として、1〜6節の前半部を歌うという、前後が逆転しているならば、信仰による勝利を明確に打ち出した歌として理解しやすいのです。

* ある学者などは、別々の詩を編集者が一つに合わせたと見ていますが、それはあまりにも人間的な受けとめ方です。詩篇は、後の編集者によって150篇を一つにまとめたと言うことは明らかですが、人間の知恵でそれをしたと言うのではなく、編集にも聖霊が働かれ、神の手によって導かれた作業であったと考えないならば、神のお言葉だと言えないでしょう。

* 編集者の上に、聖霊による導きのないまま、人間的な作業として、全く別々の詩篇を一つに合わせたとするならば、それは単なる神抜きの古文書となってしまいます。もし仮に別々の詩篇であったとしたら、その詩篇を一つに合わせられた神の深い意図がそこにあると考えるべきでしょう。

* もちろんこれは仮定です。確かに前後半の順序の違いは理解しづらいのですが、一人の詩人が信仰的学習によって勝利信仰に立った後、状況に多くの変化があったか、もっと後になってから新たな戦いの中に巻き込まれたか、主に嘆き訴える信仰状態になったのだと見るべきでしょう。

* 信仰人生とは、簡単かつ単純なものではないと言うことは、私たち自身の経験からも思わされるのです。あの時に信仰の勝利を得、確信に満ち、喜び躍っていたのに、その時の思いが霧のように消え、主よ、私の状態をあわれみ助けて下さいと嘆き訴える思いにされることがあるのです。

* それは、信仰がなくなったわけではなく、その時の確信を過去のものにしてしまったわけでもなく、信仰的学習が全く無駄になって、地に落ちてしまったわけでもないのです。それは、複雑怪奇であることが人間の本質であると言うことを知っている必要があります。

* これを知った上で、信仰の勝利者としての歩みをした後に、主にすがりついて訴えるという信仰に立つと言うような、複雑極まりない人間の信仰の姿を、この詩人は自分の体験から歌い、それを用いて神も、信仰者とはどんな人間なのかを知れと、そこに神のお心を示しておられるのでしょう。私たちも一人の信仰者として、それを学び取っている必要があります。


  (1)一時的に肉の思いに引き込まれる

* 1〜6節の前半部と、7〜14節の後半部との間に、状況においてどのような変化があったのか、あるいは時間の流れがあったのか、文面からでは全く読み取ることができません。前半の、悪を行う者どもと(2節)、後半のあだをなす者、偽りのあかしをする者(12節)とは別の敵対者を指しているのか、言葉だけでは判断ができません。

* もし推測が許されるならば、一度確信に満ちた信仰に立ったならば、2度と信仰が揺れることはないとは言い切れないのです。戦いや災難や苦難などが、違った形で押し寄せてくるからです。詩人において、別の状況にあって敵の働きかけが強く襲ってきて、主のあわれみと助けとを求めずにはおれなかったのだと考えられるのです。

* もし人間が、単純で素直であったなら、一度神による救いと助けとを受けたならば、どんな状況になろうと強い確信に満ちた信仰に立つことによって、同じように神による救いと助けとがあることを信じて安心しておることができ、主に対して必死に助けを願い求めるという、願い信仰に戻ったりすることはないはずです。

* それではこの詩人は、あれほど明確に勝利の信仰に立っていたのに、状況が変わったならば7節のような、主のあわれみと助けとを願い求める姿を現したのは、これまで神と向き合うディヴォーションを大事にし、強い確信に満ちた信仰を現していたにもかかわらず、信仰を逆戻りさせてしまったと言うことなのでしょうか。

* これは、そう単純に判断すべきではありません。信仰がレベルアップして、強い確信に満ちた信仰を持つようになったといっても、なお肉の思いがたえず出てきて、肉的な期待を持つ思いに、心が振り回されたりすることがあるからです。

* 7節を見ると、単純に見るならば、私の呼ぶ声を聞いて、私をあわれみ、私に応えて下さいと祈っているのは、これまでそのような神の助けを体験したことがないので、どうぞこの私をあわれみ、よりすがる私に応えて下さいと願っているように見えるのです。

* そうではありません。このように主に訴え、助けを願ったからと言って、主の助けやあわれみが見えなくなったわけではなく、主が応えて下さらないのではないかと思うようになっていたわけではないのです。

* 状況の変化によって、なお内側に残っている肉の思いから出る肉的期待を持つ心が湧き起こり、それが満たされない状況が続くと、主よ、あわれんで下さい、主よ、応えて下さいという願い信仰が引き出されるのです。

* 分かりやすい具体例で言うならば、2節の内容を歌った時、敵が私をそしり、私を攻めてきた時、神は驚くべき働きかけを与えて下さり、彼ら自身つまずき倒れるようにして下さった。今回も同じようにして下さるとの期待を持っていたが、一向に状況に変化が起きてこない。そんな時、主よあわれんで前回のように働いて下さいと求める心が起きてくるのです。

* 主の助けと言うのは、いつも同じ形で与えられるものではありません。しかし、人間はどうしても肉的な期待を持って、早く何とかして下さいと願ってしまうのです。詩人もそのような肉の思いに引き込まれたのでしょう。

* あれほど強い確信に満ちて、恐れませんと言い切る信仰に立っていたのに、主に信頼し、主がもっともいい道に導いて下さり、結果はすべて神のお心にお任せするとの霊的期待を持って歩み続ける信仰に立つよりも、肉の思いに引き込まれて、肉的期待から、あの時のようにお願いしますと、神に求めようとしてしまったのでしょう。

* しかし、これは信仰が逆戻りしたわけではありません。残っている肉の思いに、一時的に引き込まれただけであり、この揺れは許容範囲内にあり、震度1や2ぐらいでは、信仰は決して崩壊しません。揺れが収まれば霊的期待(結果を求めず、神が約束して下さっている内容に対する期待)を持つ信仰に安定するのです。


  (2)わが顔を尋ね求めよとの御声

* 肉的な期待を持つことによって、その期待が満たされない時に起きる信仰の揺れを感じた時、神は、詩人に次のように仰せられたと歌っています。「わが顔を尋ね求めよ」と。

* この箇所の原文を直訳すると、「わが心はあなたに言う『わが顔を尋ね求めよ』」となっていて、詩人が神に向かって、わが顔を尋ね求めよと言っていることになり、おかしな文になってしまうので、原文に混乱があったと見、「わが心にあなたは言われた、『わが顔を尋ね求めよ』」と、神が私の心に語られた文と見る読み方が、前後の内容から考えて正しいと思われます。

* 詩人は、このお言葉を聞いて、揺れが少し収まり、今は状況を何とかして下さいと願うのではなく、み顔を尋ね求めることが何にもまして最重要事項だと素直に反応したのです。それが8節後半のオーム返しの内容です。

* 素直とは、神のお言葉は、私のことをすべて考えた上で語って下さっているという、神の深い知恵と愛のお心に対する深い信頼を現し、自分の思い通りになるかどうかという視点から考えることをしないで、何一つ反論せず、神を正しいとしてそのまま受け入れることです。

* 人間は、救われても、霊だけで生きることができない複雑な者でありますから、お言葉に対して、そのまま霊で聞いて、霊で反応せず、自分の思いで聞き、自分の思いで反応するから、複雑な、ひねた反応をするようになります。

* 神のお心を正しいとし、自分の思い通り、期待通りにならなくても、疑わず、つぶやかない向かい方をすることが、霊的な素直さだと言えるでしょう。詩人は、肉的な期待を前に置かず、「わが顔を尋ね求めよ」と神から言われたお言葉通りに従う姿を現したのです。

* それでは、神が語られた「み顔を尋ね求める」とはどうすることなのか、詩人はどのように受けとめたかを考えてみることにしましょう。この後の9節で、「み顔を私に隠さないで下さい」との表現と、詩篇105:4で歌われている、「主とそのみ力を求めよ。つねにそのみ顔を求めよ」との言葉から考えてみて、これは、神と、霊と霊とで向き合うディヴォーションの時を持ち、神からの霊的祝福を受け取る向かい方をせよとのことだと考えられます。

* 霊なる神と向き合うことができるのは、私たちの内側に与えられた霊でしかありません。肉の思いで、神のみ顔を尋ね求めることはできないのです。すなわち、霊で向かうとは、神のお心を正しいとし、神の深い知恵から出たことは間違いないとする霊の思いを持って神と向き合うのです。

* このディヴォーションの時を持つ者に、神は霊的祝福を惜しまないで与えて下さいます。その霊的祝福の中には、時には人間の目に見える形で表に現れることもあるのです。2節の所で示している、敵をつまずき倒れさせられたのは、その一つです。

* しかし必ず同じ形で、目に見える結果が伴うとは限りません。それを要求すべきではありません。霊の思いを持って神と向き合っているならば、霊的祝福は注ぎ続けられているのです。

* 詩人は、「私は、霊なるあなたと向き合うディヴォーションの時を大事にし、あなたから注がれる霊的祝福を求めますから、どうかみ顔を隠さないで下さいと願いました。これは、神が私の不信仰さを見て、目を背けられないで、あわれんで霊的祝福を注ぎ続けて下さいと願ったのです。

* あなただけが私の助けですから、私を見放し、私を見捨てることはしないで下さいと願うことによって、肉的期待を持って願い求めたことを恥、み顔を尋ね求めることに思いを傾けます。と言ったのです。

* この詩人の姿を見る時、自分の中に一時的にせよ、肉の思いに引き込まれる思いを持ったことによる信仰の揺れがあったことを恥、そのことで私を見捨てないで下さいと願っているのは、自分の弱さがなお残っていることを自覚し、それでも主は、揺れが収まれば安定する許容範囲内にあると見て、見捨てられることのないように願い求めていると分かります。

* これは、今日の私たち信仰者においても同様だと言えるでしょう。自分の中に残っている弱さを自覚している必要があります。


  (3)霊によって進み続けることができるように

* 肉的期待をなお持とうとする自分の弱さを自覚した詩人は、み顔を尋ね求める時を大事にして向かうことを心がけていましたが、それで状況が良くなったわけではなく、更につらい状況を想定して、もし親までもが私を見捨てたとしても、あなたは私を迎えられるでしょうと言いました。

* これは、私を神の御許に引き寄せ、囲み入れて下さるとの神への信頼を現している言葉です。言わば、あなたにさえ見放されなければ、私は支えられます。あなたがいて下されば、私を引き落とそうとする敵がいても、あなたの下に逃れる道を教えて下さいますとの信頼から出た願いとして、教えて下さいと言ったのです。

* 詩人が願っていたことは、敵が勝利し、主にすがる私が敗北することがないように、私が霊の平安を失うことがないようにとのことでした。平らかな道に導いて下さいとは問題がなくなるようにと言うことではなく、問題があっても、私の霊から平安を奪うことがないようにして下さいという意味でしょう。

* 強い確信に満ちた信仰にレベルアップさせて頂いたのを、決して過去の出来事として終わらせてしまわないために、平らかな道を求め、敵の企てが勝利することのないように、あなたの御許において、あなたの囲みの中におらせて下さいと願ったのです。

* これは、単なるお願い信仰ではなく、み顔を尋ね求める歩みを第1にして向かおうとするこの私を、霊によって進み続けることができるように支えて下さいとの主への信頼の告白でもあります。

* それ故13節で、「私は信じます。生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを」と歌っています。私は信じますと訳しているこの言葉は仮定法で、「もし私が、信じることができなかったなら」一体どうなるだろうかという表現で,私は誰が何と言おうと信じているとの強調的表現だと見ることができます。

* 生ける者の地とは、この地上においての意味で、その時々に示される神の恵み(祝福、救い、助けなど)を見ることができることを確信していると歌っているのです。

* これは、目に見える良い結果を見させて下さるという意味ではなく、私の霊が平安でおり続けることができるように、神は、私が神の恵みを見ることができるように、霊の目をさとくして下さるとの信仰だと言えるでしょう。

* ここまで歌ってきた詩人は、肉の思いに引っ張られて、少しの信仰の揺れはあったものの、み顔を尋ね求めよとの神の御声に素直に聞き従ったことによって霊は回復したと言うのです。

* そして詩人は最後に、自分の心に言い聞かせるのです。主を待ち望め、何があっても恐れるな、心を強くして主を待ち望め、それがなお残っている肉の思いに振り回されないで、霊で生きていくために、主を信頼せよ。主だけが確かなお方だ。主は失望を与えるお方ではないと自分に言い聞かせ、霊で生きる向かい方をするように、自らを鼓舞するのです。


  (まとめ)平坦ではない信仰の道

* 前半、後半の順序が逆になっているかのように見える詩であると見てきましたが、詩人が自分の信仰状態を正直に告白した詩だと見るならば、あれほど強い確信に満ちた信仰に立ち、レベルアップしたとしても、肉の心が全くなくなったわけではなく、なお信仰を引き落とそうとする働きかけを受けて、信仰が揺れたことを示していると理解できます。これは、信仰の道というのは、平坦な道ではないと示しているのでしょう。

* 神と向き合うためには、自分の霊が強くされ、育てられていくディヴォーションの時を重んじ、霊の目がさとくされていくようにされていくしかありません。救われてもなお出続けようとする肉の思いが妨げとなり、現実に起きてくる問題、戦い、苦難などが信仰を揺らすのです。

* しかし、少し揺れがあろうと、神は肉の心を持ったままの人間の状態をすべてご存知でありますから、神のみ顔を尋ね求める向かい方さえしていれば、許容範囲内の姿として揺れも収まるまで待って下さり、恵みを見ることができるように働いて下さるのです。

* これらはすべて、更にレベルアップするように働きかけて下さっている、神の深くて、いつくしみに満ちた働きかけだと分かると、ディヴォーションを自分の歩みの最重要事項だとしてより大事にしていくことが何にもまして重要であると思わされるのです。



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