(序)神の前に生きるように働きかけられた癒し
*前回、この癒しの奇蹟には、なぜ?と首をかしげる記述が多く、理解しづらい内容だと思われたと語りました。当時において治らない病にかかっている人たちが、当時の迷信として信じられてきた癒しの奇蹟を求めて、ベテスダの池に集まっていたという、そんな社会の厄介者扱いされていた人々が多くいた所にイエス様が行かれ、その中の一人だけ癒されたという不可解な記事でした。
*今日は、その後半の内容でありますが、イエス様の方から「なおりたいのか」と語りかけられ、病の中にあった彼の内面に、信仰を引き起こさせようと働きかけられ、当てにならない迷信信仰に目を向けていないで、私の言葉の権威の前に服し、床を取り上げ、起きて歩きなさいと言われたお言葉に、素直に従って起きて歩いたという、信仰とは言いがたい、なぞめいた記事であると見ました。
*著者ヨハネは、なぜこの記事を取り上げたのでしょうか。そこに何を見たのでしょうか。安息日論争の幕開けとなることが明らかであるこの状況で、イエス様はあえて安息日を選び、勘違い信仰の問題点を明らかにして、ユダヤ人たちの信仰を矯正したいと強く願っておられたのでしょう。その上でご自身のあがないのみわざが、まずユダヤ人たちの救いとなることを願われたのです。
*しかし、信仰の矯正ほど難しいものはないと言えます。まして、自分たちの立っている信仰に何の問題もないと、思い込みの世界にどっぷりと浸かっている勘違い信仰を矯正することは、至難のわざだと言えるでしょう。それ故、その働きにより、敵意と反発を受けることが分かった上でなさった働きかけであることが分かるのです。
*それではイエス様は、そのためだけにこの病人を利用されたのでしょうか。もちろん利用されたのではなく、具体的な実例として、病の中にあり、苦悩と悲哀の人生を送っていた人の病の癒しが、安息日であっても神は休まれることなく働き続けておられる神のあわれみによるものであることを示すことが第1の目的で、その実例を用いて、安息日をどう正しく理解していくべきかを教え示そうとなさったのです。
*神を前に置いて生きていなかったこの病人にとっては、自分の病を癒してもらった日が安息日であるかどうかはどちらでもよかったのです。ただ病気の奴隷となっていて、社会からも見放された長い闘病生活に別れを告げ、自分の足で、自分の体で歩き、今生きることができるようにされたという、癒しの事実の実感だけが、彼には重要であったのです。
*しかしイエス様は、彼の、つらく、耐え難い境遇を思って、何とかそこから解放させてやりたいと願って癒しの奇蹟をなさったのではなく、どこまでも一人の魂がどのような状況であれ、神に取り扱われ、神の前に生きる者となることを求めて向かわれたのです。
*それ故、真の闇は病にあるのではなく、神の前に生きることをしない魂の状態にあり、その闇から解放されたいと願い、世にどっぷりと浸って生きてきた闇の生活から、床を取り上げ、起きて歩きなさいと、信仰によって立ち上がるようにとの意図を込めて語られたのが、この癒しの記事の主眼点であることを、著者ヨハネは受けとめて取り上げたのだと考えられます。
*その後のイエス様の不可解な行動、敵意を表しているユダヤ人たちに語られたイエス様のお言葉の意味するもの、それが何であるのか、それらを受けとめることが、今日の私たち信仰者に語りかけられている神の御声だと言うことができます。それではそのことが明確になるように、共に考えていくことにしましょう。
(1)癒された人とユダヤ人たちとの信仰の比較
*チャンスを与えようと語りかけてくれた人が、誰であるか分からないまま、床を取り上げ、起きて歩きなさいとの考えられない威厳に満ちた言葉を、この人はどのように聞いたのでしょうか。
*この人は、この方が私の病状を何も知らないから、そんな無理なことを言ったのではないかと思ったとしたら、起きて歩くことはできなかったでしょう。この方の言って下さった通り起きて歩くことができたらどんなにいいか、そう思った時に、今まで使っていなかった筋肉に張りを感じ、起きて歩くことができるかもしれないと思って立ち上がったのでしょう。
*10人のらい病人が、イエス様に向かって、「イエス様、私たちをあわれんで下さい」とお願いした所、祭司の所に行ってからだを見せなさいと言われ、その通りにしたら、からだが癒され、神をほめたたえたのです。けれども、喜びの声をあげてイエス様の所に帰ってきたのはその内の一人だけでした。イエス様はその人に向かって、「立っていきなさい、あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われました。(ルカ17:19)
*この人は、一人だけだったけれども、主に対する信仰が見られたので、あなたの信仰があなたを救ったのだとイエス様から言われたのです。
*しかし38年間病の中にあったこの人は、イエス様が誰であるか分からず、迷信信仰に立ち続けてきたから、神のことを思わず、つらい境遇だけに目を向けてきたので、神を意識することもなく、神が助けて下さるということを思うこともなかったのです。
*それ故、「床を取り上げ、起きて歩きなさい」と言われた時、神の力がこの方を通して働かれると信じて、信仰によって起きて歩き出したのではなく、歩けるような感覚がして歩き出したのです。それは言わば、彼は自分の肉的感覚を信じたのであって、働いて下さる神を信じたのではなかったのです。
*ただこの方のお言葉に、ある種の威厳を感じて、信用できると思い、長年動かしていない、萎えているはずの足が動き、からだを支える力が回復するのではないかと思えたのです。それは信仰による思いではありませんでしたが、彼には、お言葉の持つ威厳を感じ取る鋭さがあったので、それは信仰によるものではなかったとはいえ、信用して歩くことができたのです。
*それは、信仰によって主に向かう一歩手前にいる状態であったと言えるでしょう。イエス様は、私たちの信仰を見て、救い出して下さるだけではなく、まだ信仰になり切っていない一歩手前の状態であったとしても、あわれみの中に置いて下さり、神の働きかけを見せて下さるということが、ここから分かります。
*しかし、それに比べてユダヤ人たちは、病人が安息日に床を取り上げて歩いているのを見て、それは神の律法に違反しており、神に反逆することになるから、あなたを神の民の一人としてみなすことはできないと責めたのです。
*普通であるならば、長い苦悩と深い悲しみから解放され、病が癒されたことを理解して共に喜んだ上で、今日は安息日だから、床を取り上げて持ち運ぶことは神の喜ばれないことだと注意をしてやればいいと思うのです。
*神のお心である律法を重んじているようでいて、神を見ておらず、律法の番人のように、律法違反を犯している者はいないか、鵜の目鷹の目で捜し歩いている様子が伺えます。長年不治の病に戦い続けてきた人の病が癒されたという事実に全く目を向けようとせず、驚きや感動する心を失ってしまった者のごとく、ただ裁きの目を光らせていたのです。どうしてこのようになってしまったのでしょうか。
*神のお心が示しているものが、神のあわれみであるという神のお心を受けとめることのできない信仰になってしまっているから、神を怒りの神であるかのように受けとめ、自分たちが律法の番人として立ち、律法を正しく守る者だけが神に愛され、神のものとして生きることができると考えるようになってしまったのでしょう。
*癒された人は、信仰の一歩手前の状態であったのですが、彼のことを裁いているユダヤ人たちは、表面は優れた信仰者でありながら、神のお心から遠く離れた勘違い信仰の状態であったのです。
(2)神抜きの人生をやめようと心がける
*床を取り上げて持ち運んだことが、律法違反だと指摘されたこの人は、これは、私の判断でしたことではありません。私の病を直して下さったお方が、床を取り上げて歩けと言われたのです。私はそのお言葉に従っただけですと言いました。
*これは、その場逃れの言い訳や、責任逃れの弁明のように聞こえるのですが、そうではなく、自分の病を直して下さったお方が語られたことですから、私はこの方に聞き従う方が正しいと思っていますという反論と見るほうが正しいでしょう。
*これまでユダヤ人たちは、自分のことを人間扱いしてこず、助けの手を伸べてくれたことなど一度もなかった。しかも律法の外にいる者として見捨ててきた。なのに、こんな時だけ律法を守らなければ、自分たちの仲間だと認めないと要求ばかりする彼らの姿に反発を覚えていたでしょう。
*もしユダヤ人たちから、律法違反を指摘され、これはまずいと思ったとしたらその場でとどまり、お詫びすればいいと思うのですが、温かい心の感じられないユダヤ人たちの言葉よりも、自分の病を癒してくれた人の言葉の方が正しいと思うのは当然でしょう。
*そこでユダヤ人たちは更に、一体あなたに律法違反をするようにそそのかしたのは誰なのかと問い詰めたのです。彼はイエス様のことを全く知らなかったのです。当時の人々の間で知らない人がいないと思われるのに、このベテスダの池にいる人々には、イエス様についてのニュースを聞く機会がなかったのでしょう。その意味でも、世から全く隔離されていた所であったことが分かります。
*病を癒してもらったこの人が、イエス様に感謝の言葉を表すことができなかったのは、彼にその言葉を語られた後、そこに群衆がいたので、そっと立ち去られたからだと13節で言っています。なぜその時は、その場を去られたのかよく分かりません。
*なぜ群集がその場にいたのかも理解しづらいのですが、ひょっとしたら、イエス様が祭りに来られたことを知って、イエス様のおられる所を探し出し、イエス様の行かれる所について行った群衆がそこにいたのかもしれません。
*14節にその後とありますが、その日のしばらくしてからと言うことでしょう。彼が神殿に行って感謝のささげものをしにいこうとしたのか、詳細は分かりませんが、神のことを思うようになったこの人の思いが、この行動によく表れています。
*そのことを予知されたイエス様が神殿に向かわれ、そこでこの人に出会われたのです。一言話す必要があって、この人を見つけ出されたと言った方がいいでしょう。それは「あなたの病気は治った、それ故再び病にかからないように、いやそれ以上の悪い結果にならないように、もう罪を犯さないようにしなさい」と言われたのです。
*この勧めの難しさは、イエス様が言われた罪とは何のことを指しているのか分かりにくいと言うことです。このまま受けとめると、彼が何かの罪を犯していた結果、病気になってしまったと理解し、ある特定の罪の行為を指して、この人にはその罪が何であるか悟ることができたと示していると受けとめている学者が多いのです。これは因果応報の考え方です。
*イエス様が、因果応報の教義を是認されるようなことを語られるでしょうか。確かに神はアダムに対して、「善悪を知る木から取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬ」(創世記2:17)と言われています。これは、不従順の罪を犯したら、死という報復が待っているという、因果応報の考え方のように見えます。
*しかしこれは、単なる因果応報ではなく、罪を犯す恐ろしさを示し、罪から離れるように示されたのであって、罪を犯した結果、即座に死を罰として与えられず、回復するチャンスを残しておられることを思うと、イエス様も因果応報の教義を教えようとされたとはとても思えません。
*それでは、もう罪を犯さないようにとの言葉は、どのように捉えたらいいのでしょうか。それは、特定の罪の行為というよりも、神と無縁に生きてきた罪の思いのことを指していると考えられます。すなわち、神抜きの人生を送ってきた罪のことです。
*神抜きの人生に生きている者は、病気があることによって闇の人生になっていると思ってしまい、病気であることを神のあわれみのない人生、神に導かれない人生として受けとめ、神抜きの人生を生きてきたことが、彼の人生を希望のない闇の人生にしてしまっていたのです。
*そんな神抜きの人生を生きてきたあなたの上に神が臨まれ、今は神の働きかけを受け取ってあなたの病気が治った。それ故、今後、神抜きの罪人生を歩まないようにしなさいとイエス様は言われたのです。
*神のあわれみが注がれない人生など一つもありません。神はあなたを愛し導いておられる。病気はそれを否定するしるしではない。今後は神抜きの人生をやめ、神を仰ぎ、神の導きと助けとを求め、神に信頼する人生を歩みなさいと勧められたのでしょう。
*人は、信仰を持って生きていても、何らかの罪を犯し続けています。罪を犯すとは、ある瞬間、神よりも自分の思いの方を大事にするという神抜きの人生を生きることです。そのような姿を現すようなことがあっても、神抜きの人生を送らないようにしようと心がける向かい方をすれば、それで良しとして下さるのです。
*もし神のあわれみによる働きかけを無視し、受けた驚くべき恵みを忘れ、再び神抜きの人生を歩もうとするなら、以前よりももっと悪いことが身に起こるだろうと警告されたのです。
*このことはヘブル書の著者が次のように説明しています。(ヘブル6:4〜6)「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良き御言葉と、来るべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、再び悔い改めに立ち帰ることは不可能である」と。
(3)安息日の意義を理解する
*ヨハネの記録では、神殿において、病気が治った人に出会われた時のイエス様の一言、「もう罪を犯さないように」と勧められただけでありますが、彼はどうしてこの方がイエス様だと分かったのでしょうか。推測できることは、一緒についてきている弟子たちがイエス様を呼ぶ声を聞いたのか、それとも、イエス様ご自身、彼にご自身の名を明かされのか、それとも、神殿で会った他の誰かからその名を聞いたのか、どちらにしてもイエスという名をその時に知ったのです。
*更に推測するならば、安息日論争を仕掛けるために、イエス様がご自分の名をユダヤ人たちに告げるように教えられたと考える方が一番分かりやすいでしょう。ある学者などは、癒された人が自分の身の安全を優先して、自分の恩人であるイエス様を、ユダヤ人たちに売り渡したと受けとめています。
*確かに人間にはそのような利己主義の心が強いと言えますが、38年もの長い間苦悩と深い悲しみと希望のない日々を過ごしてきた人が、あえて私を癒してくれた人はイエスであったとわざわざ言いに行くでしょうか。これまでの内容から考えてみて、そのように推測するほうが難しいことでしょう。
*それではなぜ、彼を癒した時、イエス様はそっと立ち去ってしまわれたのでしょうか。最初の時に、イエス様であることを明らかにしようとされず、どうして少し時間を置いてから、ご自身の名を明らかにされたのでしょうか。それは、彼の内側に信仰の思いを湧き上がらせるための時を置かれたのでしょう。
*病から解放され、闇の人生から解放されたのは、神のあわれみと御力によるものであったと気づかされ、これまでの神抜きの人生を改めて、神に向かおうとして神殿に行ったという彼の行動を予知して待っておられたのでしょう。
*そんな彼に対して、もう2度と神抜きの人生に向かわないようにしなさい。神はあなたのことを心に留めておられる。神の愛による働きかけを見失わないようにしなさい。あなたの人生は、神を中心とした光人生にされたのだからと勧められたのです。
*そのようなイエス様を、自分の身の安全を優先して、恩人であるお方を、ユダヤ人たちに売り渡そうとするなど考えられません。もしこれが、イエス様の指図であったのなら、それは、ユダヤ人たちの勘違い信仰の矯正に乗り出すためのことだと考えられます。
*早速、ユダヤ人たちは、イエスを責めようとやってきました。そこでイエス様は、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。その神から遣わされた私も、父と同じように休むことなく働き続ける」と言われたのです。
*この内容が指すものはそう簡単ではありません。神は安息日を聖とされ,働かないで神を礼拝する日としなさいと戒められました。それは神が6日間働かれ、7日目に休まれたからだという理由がはっきりと示されているのです。(出エジ20:11 旧102)
*それでは、神は安息日ごとに完全に休まれたのでしょうか。そう考えると、そうとは言えないでしょう。確かに天地万物を創造されるという作業は休まれました。それで完全休養日になさったわけではなく、神の下に来る者のために休むことなく働き続けておられます。それでは、人間の側に完全休養日にしなさいと言われているのでしょうか。そうではなく、「聖とされた」と言って、その日を神用の日として聖別されたと言っているのです。
*すなわち、神用の日として特別に聖別された日に、神に向かうことによって、神は、私たちから目を離されることなく、休まず働き続けて下さっています。すなわち、安息日とは、実に神と向き合う日であるから、神にとってもっとも忙しい日であると言えます。もちろんこれは人間的な表現ですが・・・。
*このような休みなしに働き続けておられる父と同様、私も信じる者に目を注ぎ、あわれみを注ぎ、救い出そうとして働き続けている。その結果、彼は神の偉大な御力によって癒されたのです。神の下に行こうとして、床を取り上げて歩くことは、働くことではないと示されたのです。
(まとめ)霊がフル稼働する日として
*信仰を持っておらず、長い間闘病生活を強いられ、社会からも見捨てられるという精神的戦いの中にあって、神抜きの人生を歩むようになってしまっていたこの病人に、イエス様の方から「なおりたいのか」と語りかけられ、不信者であった彼の心の中に信仰の思いを引き起こそうと働きかけられた癒しの奇蹟の記事だと見てきました。
*彼の心の中に、どのような変化が起きていたか、その詳細を知る由もないですが、イエス様による時間を置いて働きかけられた時間差攻撃というものによって、彼の闇の心がこじ開けられ、光の心に変えられ、神を求め、神との深い結びつきを大事にするようになったと推測できる一つの行動が、癒された後、神殿に向かったというものでした。
*心の内に起きた大きな変化は、必ず行動に表れてきます。神抜きの望みのない人生を歩んできた彼の歩みが、お言葉の権威の前にひれ伏し、従う姿を現したことによって、神を仰ぎ、神に信頼を置いて歩む者に変えられ始めたのです。
*自分の病気を癒してくれたのが、救い主キリストであることを悟ったのかどうか定かではありませんが、イエス様を、神から遣わされたお方だと受けとめたのでしょう。そんな彼が、自分の人生の大転換が安息日になされたことを後々、心に思い続けることになると考えられます。
*なぜその日に、律法違反だと言われている床を取り上げて運ばせられたのか、ユダヤ人たちに答えられたイエス様のお答えを、彼は直接的、間接的に聞いたかどうか分かりませんが、あわれみ深い父なる神は、愛する者のために休むことなく、全力で導きの手を差し伸べ、働き続けて下さっている。私も同様だと語られたイエス様の安息日の受けとめ方を、彼も徐々に理解していくことになるでしょう。
*安息日、それは体を休ませる日であるが、霊はフル稼働し、世に思いをどっぷりと浸かっていた状態から、床を取り上げて、起きて歩き出す日であり、神との深い結びつきを味わい、休まれることのない神の働きかけ、取り扱いを全身で受けとめて霊が養われる日、育てられる日として受けとめ、神の作品として完成(御国に迎え入れられる日)に向かって形造られていく日として、神に差し出していく日であることを受けとめさせようとされたのでしょう。