(序)悪魔信仰の恐ろしさ
* 38年もの間、闘病生活で身も心も、社会的にもボロボロとなった生き方をしてきた病人が、信仰を持って願い求めたわけでもないのに、あっという間に癒されたことを通して気づかされたのです。
* 全く神と無縁な生き方をしてきた者であったのに、こんな私のことに目に留めて下さっている神様がおられるのだと分かり、神を前に置いて生きることの大切さに目が開かれたという、癒しを通して信仰が引き出されたことが示されている記事でありました。
* けれども、その日が安息日であったということから、律法違反を指摘するユダヤ人たちと、癒しを行われたイエス様との間で安息日論争が起き、そこで語られたイエスさまのお言葉に対して、殺意を抱いたほどユダヤ人たちが強い苛立ちを覚えて、今にも襲いかかろうとしている状態であることを学んできました。
* なぜ彼らは、殺意まで抱いたのでしょうか。それは、イエス様が唯一なる神様を自分の父と呼び、ご自分のことを子と呼んで、父なる神と同等の存在であることを語ったので許せなかったのです。神でないものが神と名乗ることは、これほど神を冒涜する罪はなく、死に価する罪だと考えていたからです。
* ユダヤ人たちがそのような敵意を抱くようになることはイエス様にはよく分かっておられたはずであります。分かった上で語られたのは、何としてでもユダヤ人たちの勘違い信仰を矯正したいとの思いからでありましたが、勘違い信仰の根本原因がキリスト観にあったと見ておられたので、今日の箇所でそれを解き明かしていかれるのです。
* なぜユダヤ人たちは、イエス様を頭から偽者と決め付け、神から遣わされたキリストとしては、決して受け入れようとしなかったのでしょうか。どんなに驚くべきしるしと奇蹟を見ても、深い教えを聞いても、キリストだと思いもしなかったのです。これは、彼らが持っていたキリスト観と、イエス様とは全く異なっていたからでしょう。
* キリスト観が正しくないと、人間に救いはなく、どんなに信仰深く見せても、それは悪魔信仰に他ならないのです。そのことは今日、異端宗教であるエホバの証人を見ても分かります。どれほど熱心で、誠実であっても、キリスト観が歪んでいるが故に、それは悪魔が作り出した信仰でしかなく、そこには罪からの救いはありません。それは単にくだらないものというだけではなく、害でしかないのです。
* ユダヤ教が、それと同じ愚かさまで落ちかかっていたのです。御言葉の約束を受けて、長い間メシヤを待ち望んでいながら、それを正しく受けとめることのできない貧しい霊性の故に、悪魔信仰になりかかっていたのです。何とかそれを矯正したいと願っておられる神のお心を受けとめて、イエス様は敵意をむき出しにして噛み付いてくることを覚悟の上で、正しいキリスト観を彼らに示そうとなさったのが今日の箇所です。今日においても、悪魔信仰に落とされないために、このことを学び取っていることが大切になってくるのです。
(1)主を受け入れなかったユダヤ人たちの容器
* イエス様を責めたユダヤ人たちとは、ユダヤ教の指導者たちか、そこから遣わされたユダヤ教を代表する人たちだと考えられます。ある学者たちの推測によると、19節からの内容は、ユダヤ人議会か、裁判の席に引き出されて、彼らから、律法違反の弁明をするように求められて、語られたものだと言います。そうかもしれません。たとえそうでなくても、律法違反だと叫ぶユダヤ教団に対して、イエス様による信仰矯正の語りかけだと言えます。
* そこには、キリストに与えられた立場、受けた権威と使命について、また、神の本質を持ち、神と一体であることが整然と語られています。言わばイエス様によって驚くべきキリスト論が展開されているのです。
* このことを語られたのは、ユダヤ人たちが持っているキリスト観に問題があったから、私を受け入れることができないと考えておられたのです。というのは、ユダヤ人たちが用意して待ち望んでいたキリストを入れる容器が、あまりにも人間的に歪んでいて小さなものであったから、偉大であり、神的、霊的であるキリストを入れることができず、彼らの容器には、不適格なものとして排除するしかなかったのです。
* 信仰の難しさはここにあります。すべての人は全く容器を用意しないで、伸縮が自由自在な容器を持ってキリストを受け入れるべきなのに、それをしないで,人間的感覚、世的感覚、各々の知識、理解力、理性、個性などあらゆる要素で形造った容器を持って、キリストを受け入れようとするのです。
* それ故、自分の持っている容器の中に入るキリスト観は受け入れるが、入らないものは排除し、それは間違いだとまで言うのです。すなわち、その人にとって信仰とは、自分の容器に入るものだけを指しているのです。
* それは信仰ではないとは言いませんが、単に信仰の一部に過ぎず、自分の容器に入らない部分は排除し、間違っているとするのですから、イエス様の語られたたとえで言うならば、良い麦もあるが、毒麦も混ざっている、いや毒麦が良い麦まで悪い影響を与えているような信仰となっているのです。
* ここでユダヤ人たちと言われている、ユダヤ教をリードしている指導者層の人たちは、神の約束のお言葉から容器を作っていくべきであるのに、自分たちの思いによって造ったので、その容器にはイエス様は入らなかったのです。
* すなわち、イエス様をキリストではないと排除するだけではなく、神と同等であるかのようなイエス様の言葉に殺意まで抱き、全く受け入れようとはしなかったというのですから、いかに変形してしまっていたか伺い知ることができます。
* それでは、ユダヤ人たちが受け入れようとしなかった、イエス様が示されたキリスト観とはどのようなものであったかを見てみましょう。キリスト観とは、単なる教義としてではなく、キリストを私たちにとってどのようなお方だと見るか、どのようなお方だと考えるかという、自分にとって深いかかわりのある存在として受けとめることで、どのようなお方として向き合うのか問われるのです。
(2)イエスが示された4つのキリスト観
* イエス様が示されたキリスト観を19節〜23節の中において4つの点を見ることができます。すなわち、神の前に生きる信仰者が、神から提供された最高のお方キリストを受け入れるには、人間的容器の中に入れ込もうとせず、容器を持たず、示されたキリスト観をフリーな状態で受け入れていく信仰が求められているのです。
(その1)神とキリストは、父と子との関係
* そのキリスト観の第1は、19節、20節で、神が遣わされるキリストは、父と子の深い関係で、そこには強い意志のつながりがあり、子であるキリストは、父のなさることを見て行う以外は、どんなこともすることができないと言われ、父の御意志に沿った生き方しかできないと言われ、父の御意志に沿った生き方しかできない者、しようとしない者だと言われ、私を見れば父なる神の御意志がすべて分かるとはっきりと言われたのです。
* しかも、父が子を愛して、ご自身が人間に対して行おうとしておられるわざをすべて子に示し、これまで行おうとしてこられたわざに限定されず、もっと大きなわざを子に行わせられる。それを見れば人は驚嘆せずにはおれないと言われたのです。
* このことを通して語られたことは、神はこれまでも人間を、罪を犯す前の人間に回復させるための働きかけとして、旧約時代を通じてなしてこられました、それは愛と不思議とに満ちた働きかけでありました。
* しかしキリストは、神の特別な子であるが故に、父なる神は、これまで示してきた回復のみわざを、キリストによってこれまで以上に、はるかに驚きと不思議とに満ちたわざを示し、子なるキリストを通してそれを見させられると言われたのです。
* これは、モーセや他の預言者たちを通して、確かに神は驚くべき奇蹟や不思議を行われました。しかし、キリストが来られたら、それとは比べ物にならないほど、大いなる驚きと不思議を見させられるという意味だと分かります。
(その2)命を与える権能を持っておられるキリスト
* その具体的な内容として21、22節でキリスト観の第2第3について述べておられるのです。それは父なる神だけの専権事項である人間の命の生殺与奪権を、子であるキリストに与えられたと言います。21節では、その一面として命を与える権威を委譲されたことが述べられています。
* 不思議な表現ですが、死人に生き返る命を与えられると言うのです。預言者エゼキエルに見させられた不思議な預言を思わされます。37章(旧1202)に、それは、ある谷に戦死者の骨が枯れた状態で無数に散乱している光景を見せられ、これらの骨は生き返ることができるかとエゼキエルに問われていたという幻でありました。
* そして、これらの骨に預言しなさいと言われているのです。「見よ、私はあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。・・・そこであなたがたは私が主であることを悟る」と。この骨が不信仰の故に神から見捨てられたイスラエルの民を指しており(37:11)、もう一度生き返らせ、信仰を回復させるということを骨の幻で生き返る光景を見せられたのです。
* キリストに与えられた命を与える権能も、単なる死人を生き返らせるという奇蹟を指しているというより、霊が死んでもう生き返る可能性のないほど枯れた骨のような状態になっている者さえも、神から託された、命を与える権能を持って、息を吹き入れることによって生き返らせるみわざのことを指しているのでしょう。
* キリストは、その霊の命をどのような人に与えられると言われているのでしょうか。口語訳では、「そのこころにかなう人々に」と訳しています。これは、「意図する、欲する、したいと思う」という意味の言葉で、イエス様の思いに沿って救おうと思う者に、霊の命を与えられると言われているのです。
* すなわち、父なる神は、子であるキリストの思いに全部任せる、あなたのしたいようにしなさい。与えようと思う者に命を与えてやりなさい。それが私の思いでもあると言われ、神の専権を子に完全にゆだねられたとの意味です。これは、終わりの日に完全な救いの中に入れ、永遠の命に生きる者にするために、キリストの思いのままに命を与えて下さるということです。
(その3)滅びを与える権能を持っておられるキリスト
* キリスト観の第3は、生殺与奪権のもう一面である、命を奪う権能をキリストにお与えになったと言うのです。命を与える者とさばきを受けて滅びる者とに分けられる権能のことです。
* しかし、これは終わりの日において神のなされる行為だと言われています。(ローマ2:5他)けれども、使徒10:42他には、イエス様が生者と死者(今生きている者と、すでに亡くなった人)との審判者として神に定められた方であることを明確にしているし、マタイ13:41では、「人の子はその使いたちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国から取り集めて、炉の火に投げ入れさせる」と言われています。
* すなわち、終わりの日の審判は、神のなされるものでありますが、その実行者はキリストであり、実行部隊は御使いたちだと言うことが分かります。ここで示しているのは、それは、神の定められた終わりの日におけるさばきのことであります。
* それでは話を戻しますが、キリストは人々をさばく権能が与えられ、全部任せられたというのですが、これは、終わりの日におけるさばきについて語られているのでしょうか。このことに関連して27〜29節の所で、子にさばきを行う権威をお与えになり,終わりの時に,生命を受ける者とさばきを受ける者に分けられると語っている所から判断すると、終わりの日に人をさばく権能を与えられたキリストは、先見能力を持ってすでにさばき、永遠の命にあずかる者と滅びる者に分けておられることが分かります。
(その4)父と同質の子を敬う必要を述べられるキリスト
* キリスト観の第4は、神のみが持っておられる専権を、ここまですべてキリストにゆだねられたのは、父と子が一体であり、同じ本質を持つ者であるから、神である父が敬われて当然なように、父と一体であり、同じ本質を持つ子も敬われるべきであって、もし子を敬わないなら、それは父を敬っていないのと同じことで、神を敵とする者だと言われたのです。
* ここにおいてイエス様は、聞き間違うことがないほどに、私と父とは一体であり、この私のことを神として敬わないなら、その人は父なる神をも敬っていない不遜な者、神を信じていない者、神に背を向けている者だと断定されたのです。
* これまでユダヤ人たちは、どうしてメシヤのことを、神性を持っておられるお方だと受けとめていなかったのでしょうか。明確なメシヤ預言として知られていたイザヤ9:6(旧954)において、「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた。・・・その名は『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』と唱えられると、はっきりと預言されています。
* そこには大能の神ご自身がみどりごとして、とこしえの父がみどりごとして生まれたと、メシヤの神性がここまで明言されていたのに、それを受けとめず、それ以外に語られている受け入れやすい預言から、自分たちの都合のいい受けとめ方をしていたのでしょう。
* それとも、神なるメシヤが目の前にいる人間そのものであるイエスとは到底思えないと考えたのか、どちらにしても、ユダヤ人たちは頭から受け入れようとはしなかったのに対して、イエス様は、私は敬われるべき神性を持って、神ご自身が人間の形を取ったものだと言われたのです。
* これは、メシヤ待望信仰を正しく持っていれば、この私がキリストであり、父と共に敬われるべきであることが分かるはずだと示されることによって、ユダヤ人たちの歪んだ信仰を矯正しようとされたのです。キリスト観が歪んでいたから、力ある信仰にはならず、その容器が人間の思いによって作られたものだから、キリストをその中に受け入れることができなかったのです。
(結び)悪魔信仰の怖さを知っていること
* 安息日に病人を癒されたことから始まった安息日論争を通して、イエス様は、ユダヤ人たちの信仰が神のお心から遠く離れた悪魔信仰になりかかっていたことが明らかにされていくのですが、もちろん、ユダヤ人たちは、自分たちの方が正しいと思い、偽キリストを排除することが自分たちの信仰であり、使命だと思っていたのです。
* どうして唯一なる神を信じ、神が約束して下さっているメシヤを待ち望んでいた人々であったはずのユダヤ人たちが、神の遣わされたキリストを排除し、殺そうとまでする悪魔信仰にすり変えられて行ったのでしょうか。今日の私たちの目から見れば、何と愚かな判断をする人たちだと思ってしまうのです。
* しかし当のユダヤ人たちは、自分たちの方が間違った判断をしているとは思わなかったのです。なぜなら、今まで信仰によって生きてきた目で判断すれば、イエスのような人間が、神の性質を持ったキリストだなどと信じることなどできなかったし、まして安息日の戒めすら守ろうとしない者が、キリストであるはずがないと判定するのは、彼らの信仰から言えば当然とも言えたのです。
* これが悪魔信仰の怖さです。神のお心によって、自分の中に容器を作っていく信仰に歩んでいれば、神が示される霊的な事柄も、そのまま受け取っていく信仰になるのですが、ユダヤ人たちは、いつの間にか人間の思いによって自分たちの中に容器を作り、そこに入るものだけを信じて、それが彼らの信仰となっていったから、その容器にはキリストを受け入れる要素が全くなかったのです。自分たちが期待するメシヤ像のみを待ち望んでいたのです。
* すなわち、人間の思いによってキリスト観が歪んでしまっていたので、イエス様のことをキリストとして受け入れることができない悪魔信仰になってしまっていたのです。それは、知らず知らずの内に、悪魔が、悪魔信仰をその人の内側に引き起こさせようとして、長年働き続けた結果であります。
* 悪魔信仰とは、何もはっきりと異端だと分かるエホバの証人とか、統一教会とか、モルモン教というようなものだけではありません。キリスト教の看板を掲げている教会にも、悪魔信仰は無数に入り込んでいます。当人はそう思っていなくても、正しいキリスト観を持たず、人間の思いによって作った容器を持った信仰者は、すべて悪魔信仰に生きている人たちなのです。
* キリストの十字架を信じていると言いながら、マリヤを神の母として崇拝するカトリックも、キリストが自分に代わって遣わして下さると約束された聖霊を信じることができない無聖霊信仰に立つ人々も、すべて人間の思いによって容器を作り、そこに入るものだけを受け入れようとするすべての信仰者も、悪魔信仰にすり変えられてしまっていると言えます。
* パウロが、ガラテヤのクリスチャンたちに対して語った言葉をもじって言うならば、「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか」(3:3)とパウロは言いましたが、「始めは神のお心をそのまま受け入れていた真実な信仰に立っていたのに、今になって人間の思いによって作った容器に入るものだけを受け入れ、それ以外は排除するという信仰で仕上げるという悪魔信仰にしてしまうのか」と言われるでしょう。
* ということは、真実な信仰に立っていた人でさえも、途中から、いつの間にか人間の思いによって容器を作ってしまい、それに入るものだけを受け入れ、それ以外は排除するという人間的信仰、悪魔信仰に陥る危険はいつもあると言うことです。
* 実際そのようにして悪魔信仰に引き落とされた人たちがたえず起こされているのを見させられます。悪魔信仰の怖さがひしひしと伝わってくるのです。
* そうならないためには、キリストが明らかにして下さったキリスト観を正しく受けとめ、このお方を私にとってどのようなお方だと見、どのようなお方だと考えて、正面で向き合うか、御言葉通して正され、自分の思いで作った容器を捨て、フリーで融通無碍(むげ)な霊的容器を持って、キリストをそのまま受けとめる信仰に立ち続けたいと思うのです。
* そうしていれば、私たちの内側に悪魔信仰の入り込む余地はなくなり、信仰が崩されることはなくなるのです。