聖日礼拝メッセージ
2013年5月26日 更新

聖 書 ヨハネ5:24〜29   (第30講)
   題 「驚くべき福音を味わう者になっているか」


  (序)反発と敵意を覚悟で偉大な福音を示される

* イエス様は、前回の19節の所から、ユダヤ教の指導者たちが抱いているキリスト観に問題があって、神のお言葉よりも、自分の思い、感覚の方を重んじた期待の仕方をしていたから、神が遣わされたキリストを受け入れることができず、悪魔信仰に陥りかかっていると指摘する形で、正しいキリスト観を示されたのです。

* 語れば語るほど激しい反発と敵意とを示してくることが当然予想されていたのですが、ショック療法として臨まれ、悪魔信仰に陥りかかっている彼らの信仰を、何とかして矯正したいとの思いが強かったので、明確に証言しておられるのです。

* いくら語られても、聞く耳を持たず、彼らの霊的容器が小さすぎたので、予想された通りの反発と敵意しか出てこなかったのです。一旦キリスト観が狂ったら、それは全体の歪みとなり、霊的容器は貧弱になり、キリストの入り込む余地がなくなるのです。

* しかし、イエス様は、聞く耳を持たない者に、これ以上語っても無意味だと考えられてとどめられるのではなく、どこか心にかかることが一点でもあれば、そこから心が開かれる可能性があるので、はっきりと語り続けられるのです。

* 19節の所でも、よくよくあなたがたに言っておくと、これから言おうとすることがどれほど大事なことか、強調する意味で、証言に重みを与えようとしておられますが、これは、アーメン、アーメンと言葉を重ねて言うことにより、いかに大事な真理であるかを示そうとされているのでしょう。

* それが24節と25節にも同様に使われており、この大事な真理は、あなたがたの命にかかわる重大な真理なのだから耳を傾けて欲しい、との思いを込めて語っておられるのでしょう。

* 耳を傾けようとしない人たちに対しても、驚くべき偉大な福音を惜し気もなく示しておられるイエス様のお姿をここに見るのです。

* この箇所には、弟子たちのことについては全く触れられてはおらず、どうしていたか推測するしかありませんが、ここには、耳を傾けようとしないユダヤ人たちだけではなく、数名の弟子たちもそこにいたと考えられます。

* そうであれば、イエス様の語られた言葉に対して、ユダヤ人たちが耳を背けていたとしても、その偉大な福音は無駄にはならず、弟子たちの心にしっかりととどまったでしょう。現に、このように福音書としてこの内容が残されていることからも分かります。

* その偉大な福音とは、19節から23節に示されたキリスト観を受けとめた者に対して、その次の段階として、そのキリストである私が語った言葉を通して、私を遣わされた神を信じる者は、永遠の命を持つ者となるという、人類に提供された最高の恵みについて触れられるのです。それがどんなにすごい恵みか、そのことについてこれから考えてみることにしましょう。


  (1)鋭い霊的感受性によって味わう歩み

* イエス様がこれから語ろうとされることは、神がキリストを遣わされるのは,人間の思いを満足させるためではなく、罪によって霊的に死んでいた者たちに、霊的に生き返る道を提供されるためであると言うことでした。

* 神が約束して下さっている救い主を待ち望むには、キリスト観が正しく受けとめられていないと、歪んだ信仰になり、人間の側にキリストを迎える容器が形造られていないので、結局は、キリストを排除する信仰になってしまうという危険性を示してこられたのです。

* イエス様ご自身が、キリストについて明らかにし、キリスト観を正しく理解するように示し、父なる神を敬うのと同じように、子であるキリストを敬うべきであることを伝えなければならなかったので、これは自画自賛風の表現に聞こえてしまう恐れがあったのですが,どのようなキリストとして遣わされてこの地上に来られたか、そのことがもっとも分かっておられるお方として、語られる必要性の方が優先され、神なるお方として語っておられるのが24節、25節によく表れているのです。

* 父なる神の御意志を誤りなく伝えることのできる、父と一体であるこの私の言葉を聞いて、私を遣わされた父なる神を信じる者は、永遠の命を受けると言われました。

* 口語訳で受けると訳されているこの言葉は、持つとか、所有するとか、身に着けているという意味の言葉ですから、イエス様がここで言われたことは、神を信じる者は、永遠の命を持ち続ける者になったと言われたのです。

* それは、あたかも温泉の源泉を掘り当てた者のようで、そこから決して枯渇することのない勢いのある命の流れを延々と頂き続けることができるようになったのです。その永遠の命は、喜び、平安、希望、力など、命の源泉であられる神と結びついたことによって、霊を生き返らせる、神からのあらゆる祝福が脈々と流れ込んでくることが示されています。

* いとも簡単に言われていますが、霊的に死んでいた者、すなわち神との結びつきが断絶し、神からの祝福が流れてこなくなった人生というのは、ただ滅びを待つだけの虚しい人生であり、この世での一時的な喜び、平安、希望、力などを得ることを望むしかなく、すべては消え去ってしまうものに過ぎない死人人生であったのです。

* そんな霊的死人が、キリストのお言葉を聞いて、神を信じた時、それまで断絶していた、神と人間とのパイプが再び開通し、神からの勢いある命の流れが奔流となって流れ込み、霊的に生き返ると言われたのです。

* しかし、このお言葉も、途絶えることのない勢いある命の流れを感じ取ることができないものであるなら、絵に書いた餅に過ぎないでしょう。キリストを遣わされた神を信じたならば、永遠の命を持ち続けることができると、どのようにして言うことができるのでしょうか。

* これを感じ取るには、鋭い霊的感受性が必要であります。そして、それは私たちの内にあるものではなく、聖霊が与えて下さるものです。パウロは、ローマ8:15、16で「子たる身分を授けて下さる霊を受けたのである.その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊自ら、私たちの霊と共に、私たちが神の子であることをあかしして下さる」と言っています。

* 御霊が、私たちの内に注がれたことにより、神からの勢いある命の流れを感じ取り、枯渇することのない命を味わい続け、神の子として頂いている喜びと平安と希望と力とに満ち溢れることができるのです。この霊的感受性によって、この素晴らしい永遠の命を持ち続ける者とされたと確信し、喜び躍ることができるのです。


  (2)神を信じているようでいて霊的死人のままの人

* イエス様は、神を信じた者は、永遠の命を持ち続けることになると言われただけではなく、さばかれることなく、死から命に移っている状態にされたと言われました。これは、神からの素晴らしい祝福だけではなく、明確な霊的保証をも約束されたと言われているのです。

* 神を信じることにより、永遠の命を持ち続けるようになって、これまでは自分の力によって生きるしかなかった者が、上からの力によって生きるようになり、信仰に生きるということが、どんなに安心と先行きの心配から解放された幸いを味わうことができるかを示しただけではなく、もう神からさばかれることなく、神の目から見た死人の側の位置から、神に与えられた命によって生きる側へと移しかえられていると言われたのです。

* この所を理解するために知っておかなければならないことは、24節、25節に語られている死人、あるいは命を受けるという言葉は、肉体的な意味ではなく、罪ととがの中に死んでいたと言われている霊的死人のことであり、信じることによって霊的命を受け取った人のことでありますが、後半の28、29節で語られている墓の中にいる者、よみがえった者とは、終わりの日に信仰者も不信仰者も黄泉(よみ)から呼び出されて、さばきを受ける様子が語られているのです。

* 今見ている24節の方では、イエス様が語っておられるその時代の霊的死人への信仰の呼びかけでありますから、永遠の命を持ち、神の子とされた者はさばかれることはないと言って、キリストの故にすべての罪ととがが赦され、神の前に罪のない者として立たせて頂くようになったので、その位置に立ち続けていれば、実際に罪ととがが残っている自分の様を見させられても、もうさばかれない側に置いて頂いていると言われたのです。

* そして、それは霊的死人の位置から、霊的命を頂いた位置へと引越しをした者と神がみなして下さり、たとえ世においてなお肉に引っ張られ、罪に思いが捉われるようなことがあっても、引越した事実は変わることなく、永遠の命がもたらす喜び、平安、希望、力を頂く者となっていると言われているのです。

* ユダヤ教の指導者層にいる人たちは、自分たちは神を信じ、神に忠実に生きている者、神に愛されている者だと自認していました。しかし、神が遣わして下さったキリストを受け入れず排除し、キリストのお言葉を聞こうとしないことによって、神を信じることをやめているのと同じであり、自分の思い、自分の感覚を信じているだけの霊的死人の位置に立っていることになるのです。彼らはそのことに気づこうともしなかったのです。

* 今日でも、神を信じているようでいて、キリストの言葉を本気で聞くことなく、聖霊の助けを頂いて福音の真理を受けとめることがないので、父なる神を信じていることにならず、ただキリスト教の雰囲気を大事にし、自分の思い、自分の感覚によって自己流信仰を持っている人たちも多くおり、霊的死人の位置から霊的命を頂いた位置に移し変えられていない人たちもいることを思うと、信仰の厳しさを思わされると共に、悲しく思うのです。

* そこでイエス様は、そのようなユダヤ人たちに、なおチャンスを与えておられるのです。霊的に死んだ状態にある人たちに用意されている最大のチャンス、それが神の子の声を聞く時だ。それは決して先のことではない。今すでに来ている、私の声を神の子の声として聞く者は、死から命へと移し変えられる。この時を逃さないようにしなさい。そう語られたのです。

* 耳を傾けようとせず、自分の思い、自分の感覚を押し通すことしか考えていなかったユダヤ教の人々に対して、なおもチャンスを与え続けられ、神の目から見て、死人の位置から、命を得ている者の位置へと移し変えられるように願って、働き続けておられる様子が感じられるのです。


  (3)神の約束と真実を信じる信仰

* 神の驚くべき祝福を提供するという、イエス様のこのような働きかけには、父なる神が、命の源泉を子に譲り渡されたという背景があるからだと26節、27節で語られるのです。そして、命の源泉を子に譲り渡されたのは、子が人の子であるからだとイエス様自ら、ご自身のことを人の子と言われているのです。

* この言葉には定冠詞が付いていないので、特定の「人の子」というメシヤの称号としてではなく、人間としての性質を持った存在であることが強調されていると見られているのです。

* すなわち、父なる神と一体である子なる神としての神性を持ちつつ、人間としての性質を持って、人間の一人となられたキリストに、父はさばきの全権を譲り渡されたと言って、人としての姿を持っていても、神の権能を託されたことを明言されたのです。

* そのことが信用できないで、ますます反発を覚えているユダヤ人たちに、あなたがたはこのことを驚き怪しむかもしれないが、子にさばきの権能を託されたことが明らかになる時がくる。その時には、信仰を持って亡くなった者も、信仰を持たないで亡くなった者もすべて神の子の声を聞き、墓の中から呼び出されて、一方は永遠の命の完成を受け取り、一方は滅びの中に落とされるためにさばかれると言われたのです。

* 何という強烈な爆弾発言でしょうか。これはユダヤ人たちに、今は信仰を持って神に愛されている民として立っていると思っているあなたがたは、さばきの権能を委譲された人の子を受け入れないことによって、父なる神を排除したことになり、終わりの日に、そのさばきの前に恐れおののくことになると言われているのです。

* 何を血迷ったことを言うかと、はらわたが煮えくり返る思いでユダヤ人たちは聞いていたことでしょう。自分が人間であることを隠せないものだから、詭弁でもって神としての性質を持ちながら、人間となり、神の権能を譲り受けたとまで言ってのけるイエスの言葉に対して、ユダヤ人たちは歯ぎしりをしていたことでしょう。

* 人間の理性でしか考えられず、神の約束されたキリスト観を受け入れていなかったユダヤ人たちにとっては、このような神性と人性とを持ち、神にしかない権能を譲り受けられたというイエスの言葉に、耳を傾けることができなかったのです。

* イエス様の側の視点から、このことをもう少し考えて見ましょう。ただ反発と敵意しか返ってこないことが分かっているのに、どうしてこのようなことまで明言しておられるのでしょうか。そのイエス様のお心を考えてみる必要があります。

* イエス様は、最高の福音として24節のお言葉を語られました。それは、私の言葉を、神が遣わされたキリストの言葉として聞き、私を遣わされた父の深い愛を受けとめて信じる者は、その時から、最高の祝福である永遠の命を持ち続ける者になれる。誰であっても、このすごさを味わって欲しい、そう強く願って語られたのです。

* しかし、キリスト観が歪んだままであるなら、神を信じていることにはならず、永遠の命を持つことができるというとんでもない祝福にあずかることもできない。今あなたがたは神の子の声を聞いている。それが分かった者は霊的死人から霊的命を頂いた者に移し変えられると明言してこられたのです。

* 確かに、神だけが持っておられるさばきの権能を、人となられたキリストが譲り受けられたと言われても、今それが私たち人間に分かるわけではありません。終わりの日が来なければ明らかにはならないのです。しかし、今信じていなければ、終わりの日に分かった所で信じることができるわけではありません。その時には遅いのです。

* それ故、信仰は人間の理性と確認によって持つものではなく、神の約束と真実を信じて持つものなのです。このことは、今日の私たち信仰者においても問われています。人間の理性で納得できるか、本当にそうだと確認できるかという観点から信仰を見ているならば、何も分からず、信じるということほど頼りないものはないでしょう。

* 終わりの日が来なくても、さばかれる光景を確認できなくても、キリストはさばき主であり、善いものと悪いもの、すなわち神に従う者と神に逆らう者とを右と左に分けられ、一方は完成した永遠の命を授けられ、一方は完全な滅びを授けられるという神の約束と真実を信じること。これが信仰だと示されているのです。


  (まとめ)終わりの日において明らかにされる

* イエス様が、ユダヤ人たちの前で弁明してこられたことは、神が育てられた信仰ではなく、いつの間にか人間の理性による納得と、人間的に確認できることだけを重んじる向かい方になってしまっていたユダヤ人たちの信仰に、警鐘を鳴らされるための弁明であったと言えるでしょう。

* そのような人間の理性と確認が中心となった信仰では、神が遣わされたキリストさえ受け入れることができず、神を信じているようでいて、自分の思い、自分の感覚だけを信じていて、結局は神を信じていない者として見られ、神からの最高のプレゼントである永遠の命を持つことができない、自己流信仰で終わってしまうと警告されたのです。

* 神の約束と真実だけに頼る信仰、これは確かに難しい信仰だと言えるでしょう。しかし、これしか永遠の命を持ち続ける歩みはないのです。いつでもどんな時でも、自分の理性を納得させてくれる信仰ではありません。これで大丈夫だと確認できるとは限りません。けれども、神の約束は確かで、真実だと信じるのです。そこにだけ永遠の命を受け取る道があると言われているのです。

* もちろん、永遠の命そのものも見えるわけではなく、確認できるわけでもありません。しかし、神の確かさの故に、それは神が注いで下さる本物の祝福であり、その永遠の命が、霊の喜びと平安と希望と力をもたらしてくれるのです。

* このことが分かる者と分からない者との差は終わりの日に明らかにされるでしょう。確かにその時がくるまでそれが本当のことかどうか誰にも分かりません。神が約束されていることを信じているだけです。

* 終わりのさばきの時に信じるチャンスは残ってはいません。今、神の約束と真実を信じることが求められているのです。そして今、永遠の命の素晴らしさを味わうように導かれているのです。

* イエス様が示された驚くべき福音は、罪から解放され、永遠の命を持つ神の子としての歩みが用意されているというとんでもないものでありました。にもかかわらず聞く耳のない者たちにとっては、ただ苛立ちしかもたらさなかったのです。福音を味わえない者の悲しさが見させられます。



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