(序)信仰の歪みの根は、聖書理解の歪みにある
* ベテスダの池の廊にいた病人を安息日に癒し、床を取り上げさせたということが、ユダヤ人たちの大切にしていた安息日の律法規定に違反したとして迫ってきた人々に対してのイエス様の弁明と言うか、歪んだ信仰矯正のための宣教、教育として語られてきたのが、19節からの内容でありましたが、今日の箇所は、そのまとめとも言える重要な内容が記されている所です。
* これを逆から見れば、イエス様は、ユダヤ人たちが受けとめている安息日律法理解が、いかに歪んだものであるかご存知であったので、彼らに対する、神のお心についての宣教と教育のための時として、あえて安息日に人を癒され、ユダヤ人たちの思いをあおった上で、信仰の歪みを指摘し、そのままでは神から遠く離れた状態であることを分からせようとされたと見ることができます。
* と言うのは、信仰の歪みがある人は、本人は自分の信仰に歪みがあるなどと思ってもいませんから、気づこうとすることもなく、更に歪みがひどくなり、全く真理から逸れた虚しい信仰になってしまい、気づかなかったではすまない最悪の結果となってしまうからです。
* イエス様は、これまでの所で、ユダヤ教の信仰者たちが持ってきたキリスト観の誤りを指摘し、正しいキリスト観を持たないと、悪魔信仰に陥る怖さを示し、自分の人間的な狭い容器の中に入るキリストを求めてはならないこと。そうでないと、あなたがたが願っている永遠の命にあずかることはできないと語られてきたのです。
* ユダヤ人たちは、神のお言葉よりも、自分の思い、自分の感覚の方を重んじて、自分が考えている都合のいい神に期待していたので、神が遣わされたキリストを受け入れることができませんでした。それはイエス様が、自分たちの期待通りのキリストだとは到底思えなかったからです。
* まして、自分たちが後生大事にしてきた安息日律法を否定するような言動を示されては受け入れられず、神を冒涜する偽キリストとして排除することしか考えられなかったのです。
* そのようなユダヤ人たちにもなおチャンスを与え、私の言葉を通して神の声を聞き取り、父を信じる者になるならば、人間にとって最高の祝福である永遠の命を持つようになり、霊的死人として滅びるしかなかった者が霊的命を与えられ、神の前に生きることができるようにして下さる。今そのことが実現すると明言されたのです。
* それでも信じようとせず、反発と敵意を抱くようになった彼らに対して、ご自身がキリストであることを証明する神からの3人の証言者が与えられ、それがどれほど確かなものであるかを語られた上で、彼らを招かれたのです。
* ここまではっきりと示され、神性を持っておられなければなし得ない驚くべきしるしを確かめながらも、彼らの心の中に、この方をキリストだと信じる思いが起こされなかったのはなぜでしょうか。それは彼らの信仰が、神を信じているようでいて、自分たちの思いを満たし、納得させ、喜ばせてくれるお方であって欲しいと期待する自分の思いを信じていただけだったからです。
* どうして彼らの信仰が、ここまで歪んでしまったのでしょうか。こうあってほしいと願う自分の思いが持つ期待感が強く、そこから離れることができなかったからです。
* それ故、どんなに熱心に向かっても、どんなに忠実に向かっても、それは神に対する熱心や、神に対する忠実な姿勢ではなく、自分の思いに対するものですから、その誤りに気づかされて立ち帰らない限り、その信仰の歪みはなくならないのです。
* 今日の箇所においてイエス様は、信仰の歪みは、聖書の受けとめ方に歪みがあるからだと示していかれるのです。言わば歪みの根は、聖書理解の歪みにあると言われたのです。このことは、今日の私たち信仰者に対しても語られている重要な内容であるが故に、そこに語られた意味を正しく把握していく必要があるでしょう。
(1)聖書から何を得ようと思っているのか
* 私の言葉を聞いて、また、私の行っているわざを見て、そこに神の声を聞き、神の御姿を見て、私を遣わされた父を信じるようにと勧められてきたイエス様は、彼らが、聖書のことをよく知らないから、私のことをキリストとして受け入れられないと思っておられたわけではありません。
* ユダヤ人たちは、自分たちは、神から、神のお言葉である聖書を託された民であることを誇りに思っていました。それ故、真剣に聖書を研究し、調査することに熱心であることを、イエス様もよく知っておられたのです。その意味では、ただ読むだけではなく、丹念に聖書研究にいそしんだ人々であったのです。
* イエス様は、それが悪いと言っておられるのではありません。聖書の中に永遠の命があると思って、すなわち、間違った求め方をしているから、いくら丹念に聖書研究にいそしんでも、聖書から神のお心を正しく受けとめることができないでいると言われたのです。
* 一体どのような思い違いをしていたのでしょうか。一つのたとえをもって理解の助けにしましょう。人間が得たいと願っている宝があるとしましょう。その宝を得るためには、まずその宝が隠されている地図を探し、その地図を解析しなければなりません。そして宝を探し当てるのです。
* ユダヤ人たちは、永遠の命という、人間にとって最高の宝を得たいと聖書を研究し、調査したのです。しかし聖書には永遠の命が隠されているのではなく、永遠の命を得るための地図(方法)が書いているのです。その方法がキリストのことなのです。
* イエス様は、旧約聖書はこの私についてあかしするもので、私を知り、私を信じるのが永遠の命を持つ鍵だと教えられたのです。直接永遠の命を求めても、罪人には与えられず、キリストを信じ、キリストのあがないによって罪赦された者となることによって、永遠の命がプレゼントとして与えられ、持つことができるようになると教えられたのです。
* このことに気づいていないユダヤ人たちは、罪人のまま、永遠の命を得ようとして聖書を調べたのですが、それを得ることができず、律法の勧めに沿って善い行いをすることによって永遠の命を頂けるのではないかと考えるようになっていたことが、役人であったと言われている一人の青年の言葉から分かります。(ルカ18:18)
* しかし、いくら律法を忠実に守っても、永遠の命を得ている実感はなく、与えられないのではないかとの不安を覚えながら、確信のないまま歩んでいたのがユダヤ教の信仰者たちだったのです。
* そんな彼らに対して、あなたがたが神を信じ、神からの永遠の命を得たいと願っても、確信できないのは、神を信じる信じ方が間違っているからだ。神が遣わして下さったこの私の言葉を聞いて神を信じ、神のお心を受けとめて、罪の赦しの道を得る歩みをすることによって、初めて永遠の命を持つことができるようになり、その喜びにあふれることができると言われたのです。
* すなわち、永遠の命を求めるのは間違ってはいません。しかし、聖書を調べれば永遠の命を得ることができるとの考え方に問題がある。聖書を調べて到達するのは、この私がキリストであることが分かり、神と人間との隔ての壁となっている罪を取り除くためにこの地上に遣わされ、そのみわざを成し遂げることが記されていると分かるようになると、丁寧に説明されたのです。
* これは、今日の私たち信仰者への警告でもあります。神はこのような罪深い無価値な私たちを、神のエネルギーに満ちた聖書を託した民にして下さったことを誇りとし、その御言葉を研究しようとしないならば、全く論外ですが、何のために聖書を研究し、聖書から何を得ようと思っているのか問われているのです。
* 聖書の中に、慰めや励ましを得ようとして求め、元気づけられ、喜びを得ようとして学ぶ人があります。しかし、聖書は、キリストについてあかしされている書であると気づき、このキリストを知ることが最大の目的であり、私たちの罪をあがなうために、神がお遣わしになったお方であると信じることによって、真の慰めや励ましを得、霊が元気づけられて、喜びにあふれることができることに気づこうとしないならば、聖書はその人の力にはならないと言われるのです。
* 38節で語られていたように、キリストを信じることが、神のエネルギーそのものである神の御言葉が内にとどまることになると言われているわけですから、御言葉の指し示すものはキリストであり、キリストが私たちのうちにとどまって下さる事が最高の恵みであると分かるのです。
(2)どうしてキリストのもとに行こうとしないのか
* イエス様が、ここまで明確に語られても、ユダヤ人たちは全く心を動かそうとせず、反発と敵意の目を表し続けているのを見られて、イエス様は更に指摘されるのです。40節、「あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようとしない」と。
* イエス様からの招きの言葉を、はらわたが煮えくり返る思いで聞いていた彼らは、お前にそんなことは言われたくない、御言葉を真剣に研究している私たちのことを神はご存知で、そんな私たちに、神は命を与えて下さると確信していたのです。神のお心を知らないと言うことは恐ろしいことです。
* 神は、罪を犯した人間に、その罪を処理するキリストを遣わし、その上で、神との結びつきが回復された者として、永遠の命を持つことができるようにして下さる。それが、聖書に記されている内容であるから、聖書を学べばキリストに到達し、そこに、罪が処理される完全な方法が用意されているのが分かるようになると示されているのです。
* なのに、ここまで聞いてもあなたがたは私のもとにきて、私があなたがたの罪を処理した上で、永遠の命を与えようとして神から遣わされてきたのに、私を信じようとしないのはなぜか。なぜそんなに霊が鈍くなってしまっているのかと問われているのです。
* これは、あなたがたの聖書の受けとめ方が歪んでいるから、霊は全く育たず、鈍くなってしまっている。聖書を研究することが悪いことではなく、それは重要なことです。しかし、人間の知恵によってそれを知ろうとする時、いくら聖書を研究しても、キリストに到達できず、頭だけで考えるので、知的な満足を得るだけで終わってしまいます。
* ユダヤ教の指導者たちは、聖書を探求する人たちであったと思われるのに、どうしてキリストに到達し、そのキリストがイエス様のことだと理解できなかったのでしょうか。
* このことは、イエス様もこれから少しずつ教えていかれるのですが、人間の知恵には、自分の思いが入り込んでいるので、神のお心を正しく受けとめることができず、聖霊の助けによらなければ、神の知恵を受けとめることができないことを示していかれるのです。(14:16、17、15:26、16:13)
* ユダヤ教の人たちにとっては、聖霊の働きかけがまだ明確にされていない時代であり、特別に選ばれた人たちだけに与えられるものと理解していました。それ故、彼らができることは、神から遣わされた預言者が、聖霊の働きかけによって語ってくれた言葉を聞いて、そこに自分の思いを入れ込まないで、そこから神の声を聞いていこうとする姿勢を示すことしかなかったのです。
* 神はそのように向かう者に対して、聖書が示す大事な神のお心を明らかにして下さり、キリストに到達し、キリストのあがないによって罪の赦しを頂く道へと向かわして下さり、その歩みが永遠の命を持つことのできる歩みにつながっていることを示して下さっているのです。
* 今日における私たち信仰者にとっては、聖霊が内住して下さっていることを信じ、聖霊の助けによらなければ、神のお心を知ることはできないと分かっていますから、聖霊の働きかけを頂いて、聖書において語りかけている神の声を聞き取っていくことが重要になってきます。
* パウロは、そのことを、「わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである」(Tコリント2:13)と言っています。しかし私たちは、御霊が教える言葉を用いるとはどういうことなのか、霊によって霊のことを解釈するとはどういうことなのか、分かっているでしょうか。
* これは、同じTコリント12;3で、「神の霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」と言われている言葉から判断しますと、聖霊が私たちの霊に思いを起こさせて悟らせ、語らせて下さると信じて向かう所に、聖霊が働いて下さると言われていることが分かります。これは信じるしかない霊の事柄だと言えるでしょう。
(3)神の愛を拒んだユダヤ人たち
* 人間の知恵によって聖書を探求してきたユダヤ人たちが行き着いた先は、イエスがキリストではないという完全否定でありました。彼らは自分の思いを大事にし、自分の知的判断を重んじたので、神の愛は彼らのうちに届かなかったのです。
* それ故、イエス様は42節で、「あなたがたは自分たちのうちに神の愛を持っていない」と指摘されたのです。これは何と激しい言葉でしょうか。自分たちほど神を信じ、神を愛し、敬っている者はいないと自負していた人々に対して、せっかく注がれている神の愛を、あなたがたは拒み、神のお心を排除してしまっていると言われたのです。
* ユダヤ人たちにとってこのような言葉は、腹立たしい思いが絶頂に達していたことでしょう。自分たちの信仰に対する完全否定と受けとめたからです。しかし、イエス様はそこで言葉をとどめられることなく、他の人が、私はキリストだと言ったら、あなたがたは受け入れたに違いない。それはあなたがたの信仰が、神のお心を受けとめられないほど信仰が歪んでしまっており、聖書理解が歪み、神から称賛を受けることを第1にする向かい方をしていないから、私を信じることができないと言われたのです。
* なぜイエス様は、ユダヤ人たちの信仰をそこまで全面否定される必要があったのでしょうか。彼らは彼らなりに、真剣に神を信じ、神に喜ばれる生き方をしたいと願って歩んできたのです。だからそのことを思って、今少しずれているから直しなさいとやさしく語ることはされませんでした。それではらちが明かないと思っておられたからです。
* あなたがたの信仰は、神のお心から完全に離れた、神の愛を受けつけないくだらない信仰になってしまっている。それが明確な形で現れたのが、この私を神から遣わされたキリストとして信じないどころか、偽キリストとして排除しようと殺意まで抱く姿となっている。
* これは、少しの歪みどころではない。悪魔に躍らされた神に敵対する信仰となっているから、早く気づいてそれを捨て去り、聖霊によって語った預言者たちの言葉に耳を傾け、人間の思いによる期待感から作り上げたキリスト観を捨て、この私を神から遣わされた者と認めて、その言葉を聞き、そのわざを見て神を信じる向かい方に切り換えない限り、あなたがたに未来はない。永遠の命はないと断言することによって、何とか引き戻そうとされたのです。
* 人は、一度歪めば、どこまでも歪み続けます。自分でその歪みを矯正する能力を持ってはいないのです。聖霊によって語られた言葉を聞き、自分の信仰が、自分の思い、自分の期待を土台にしたものだと気づかされて立ち止まり、御言葉から神の声を聞き取り、神の知恵を受け止めたいと願って向かう信仰に立った時、初めてその信仰は矯正され、神の愛が入り込んでくるのです。
* 私があなたがたのことを父に訴えていると思ってはなりません。訴えているのはモーセですと言いました。すなわち、モーセ律法が、あなたがたのことを神の前にいかに罪人であるかを明らかにして、そのままでは赦されることはあり得ないと訴えています。
* モーセは、罪を明らかにする律法を提供しただけではなく、その罪の解決をもたらす私のことについても指し示してきた。だから、私を信じることがモーセを信じることにつながっていると言われました。
* ここでは、モーセという言葉で、旧約聖書全体を指して言われたと考えられます。すなわち、自分の思いを入れ込まないで聖書を読み、研究していくならば、律法は罪を明らかにし、神が遣わされるキリストは、その罪を解消されるために来て下さるということが分かるはずだと言われたのです。
* しかし、理屈では分かっても、人間の思いを入れ込まず、人間の期待を入れ込まないで聖書を読み、研究するということはいかに難しいことでしょうか。今日では、聖霊が助けて下さることが分かっているのですが、本気で聖霊の助けを信じて向かわない限り、神の知恵である聖書を、歪むことがないように受けとめることはできないでしょう。
* 私たちの信仰はこの一点にかかっていると言えるでしょう。聖書理解が歪めば信仰は歪み、神から遠く離れたものとなってしまいます。私たちの聖書理解が歪まないように、いつも聖霊が働いて下さっていることを本気で信じていきたいと思うのです。
(結び)キリストは私にとって何なのか
* 神は、モーセや多くの預言者を通して、ご自身のお心を示して下さいました。その中心的内容が、イエス様によると、この私が神の子キリストであるとあかしすることにあると言われたのです。
* 聖書の中心内容がそう簡単に見えてこないと思わされる、この膨大な旧約聖書の内容から、キリストのことが分かって、キリストに到達できるのかと言えば、そうたやすく言うことはできないでしょう。
* しかしイエス様は、聖書を研究すれば、神が分からせて下さる。神のお心は、罪を犯した人間を何としてでも人間性を回復させ、神の前に立つことのできる者にしたいと願って、長い人間の歴史に働き続けて下さった。その最大の働きかけが、救い主キリストを遣わされることだと示されているのです。
* 聖書を正しく理解し、聖書信仰に立つと一言で言えるほど簡単なことではありません。どうすれば正しい聖書信仰に立つことができるのでしょうか。多くの信仰者が、多くの教会が、聖書理解が歪んだまま歩んでいるのを思う時、考えさせられるのです。
* 日本人として生きている私たち信仰者にとってできることは、翻訳されたいくつかの聖書を読み、それを研究し、そこに自分の思いや自分の期待を入れ込まないで、ただ神の深いお心を読み取りたいと、真剣に願い求めることです。
* その学びが、私たちをキリストへとたどり着かせ、キリストと結びつき、キリストを味わう者とされた時、私たちが真に願い求めるべき永遠の命を得させて下さると語られているのです。
* イエス様がここで語られていることの中心は、私を知れ、私を味わえ、私を通して神の声を聞け、私と結びつけ、そうすれば人間にとってなくてはならない最高の祝福である永遠の命が与えられることになり、御国が約束され、平安な人生を送ることができると言うことでした。
* しかし、こうも言われているのです。あなたがたは私を知らなさ過ぎる。私を人生の中心に据えていない。あなたのうちにとどまる私のすごさを味わっていない。私はあなたの何なのか。ただ少しだけ助けてくれるだけの便利屋か。あなたの無知をカバーしてくれるだけの家庭教師か、それともあなたのすべてだと言えるのか。そう問いかけられているのを感じるのです。
* 私たち人間が、人間として生きる最高の生き方ができる者になるためになくてはならないもの、それが神と結びつく永遠の命を持つことです。それをもたらして下さるキリストを知り、キリストを迎え、キリストにとどまって頂き、キリストが私のすべてだと言える時、それが私のうちに実現するのです。
* これらの内容が、すべて聖書の中に宝として隠されていることを思う時、日々聖書を読み、研究できるということ自体、これ以上幸いなことはないと言えるのです。