* 私にとってクリスマスとは、どんな意味を持っているのか、単なる一つの行事に過ぎないのか、それとも、私の信仰にとって大きな力となる有意義なものなのか、毎年クリスマスの時期が来る度に考えさせられます。
* 今日の箇所は、有名な東方の博士たちの訪問の記事です。これは絵になる話ではありますが、その話のどこに、キリストの福音が示されていると言えるのか、以前から取り組みたくない箇所の一つでありました。
* 著者マタイが、そこに大事なキリストの福音が込められているエピソードとして取り上げたのは、約束のキリスト降誕の意義を示そうとされた神のお心を、そこに読み取ったからでしょう。私たちも今日はそのお心を読み取りたいと思うのです。
* 東から来た博士たちと訳されている人たちは、どこの国の、どのような人たちであったのか、正確には分かりませんが、アッシリヤ、バビロン、ペルシャの中の一つの国であったと考えられますが、この博士と訳されている言葉マギは、天文学者という意味と、占星術師まで含めて呼ばれていた人々の呼称でありました。
* 福音書の記事から見て、特に星を観察していて、西の方角に珍しい特別に光る星を見つけ、その星が意味するものは、ユダヤ教の聖書において預言されている、メシヤ預言を示すダビデの星(民数24:17 旧224)ではないかと受けとめたのでしょう。
* これは、昔ユダヤ人が長い間捕囚時代を過ごしたことがあったので、ユダヤ人を通して、知識人たちは、ユダヤ教や聖書についても、ある程度知識を持っていたからでしょう。
* けれども、いくらそれがメシヤ誕生を示す星ではないかと受けとめたとしても、長い年月かけてまで、はるばるユダヤの地にまで会いに来ようとしたのは、単に興味本位やめずらし物好きだけだとは到底言えないでしょう。
* この星の持つ意義を確認することが、彼らの人生において意義のあることだと考えたであろうことが伺えます。ユダヤ教におけるメシヤ誕生の持つ意義をどこまで理解したのか、実際に幼な子イエスを見ることによって何が分かったのか、この記事だけでは詳細は不明です。
* 著者マタイは、彼らが神信仰を持っていたように見ていたとは考えられませんし、メシヤ誕生が彼らの人生を左右する重要な事柄だと受けとめていたようにも考えられません。
* それでは、メシヤ待望の信仰に生きていなかった彼らが、これほどの長期にわたる労苦をもいとわずに、メシヤを探し当てるという行動を示したということに、マタイはどのような意義を見出していたのでしょうか。
* 考えられるその意図する所の第1の点は、本来なら、メシヤ待望の信仰に生き、神の時が満ちることを期待し、神からのシグナルを見ようと待ち続けているはずのユダヤ教信仰に生きていた人たちが、現されたしるしを見落としてしまったということを明らかにすることだったのでしょう。
* それだけではなく、異教の博士たちを通して示されたそのシグナルに対しても、何一つ信仰的反応せず、鈍くなってしまっていた姿を明らかにしようとすることであったことが分かります。
* 第2は、ユダヤ教信仰から言うならば、異教であり、邪教に属する占星術師たちの方が、神の出されたシグナルに対して、敏感に知的反応を示し、それを探求し通したという、本来信仰者の現すべき一面を導き出され、本家の面目が丸つぶれとなる事柄として浮き出されたのでしょう。
* 第3は、占星術師たちが、星がメシヤ誕生のシグナルだと受けとめただけではなく、星を動かしてその家に案内するという、奇跡的経験を素直に受けとめ、更に夢のお告げを明確な神からの示しとして受けとめて従ったという、自分たちの感や知識を頼りにするのではなく、神の導きを信じている者のように振舞った姿を描き、それに反して、神の導きを全く感じ取ることができなくなってしまっているユダヤ教信仰者たちと対比しているのが分かります。
* それでは、著者マタイの意図した3つの点を総合的に考えてみることにしましょう。まず第1の人々の、神のシグナルに対して表した反応として描き出しているのは、それはヘロデ王を始めとするエルサレムに住むユダヤ教信者すべてだと示しています。その中には、指導者階級にいた祭司長や律法学者たちも含めています。
* 彼らは、本来すべてキリスト待望信仰に生きている人々のはずでありました。それ故、王から問われると即座にミカ書5:2を引用して、ユダの地ベツレヘムに生まれると言ったのです。無知ではありませんでした。ここまで示され、時が満ちた光景を明確にされたのに、なぜか自分への神の働きかけだと受けとめることができなかったのです。
* 一体なぜでしょうか。それは、信仰が形だけとなり、飢え渇きがなくなると、神の働きかけに敏感に反応しなくなることが明らかにされているのです。
* どうして彼らは飢え渇きがなくなっていたのでしょうか。多くの人々は、霊が育っていないと、肉の思いや事柄が満たされることを求めることはしても、霊の思いや事柄が満たされることを求めなくなってしまうからです。それ故、神への期待が薄れていくのです。
* 当時のユダヤ教の信仰者たちは、形では信仰を守っていたが、約束されていたメシヤが誕生したとの言葉を聞いた時、不安を感じたと言うのです。
* 何に不安を感じたかと言いますと、ヘロデ王を脅かすユダヤ人の王の誕生という事実は、ヘロデ王が残虐な性格を持っていることを知っていたので、王位を脅かす存在の出現によって、ヘロデがどのような行動に出るか不安を感じ、社会が混乱に陥るようになると考えたのでしょう。
* その意味で、この当時の人々は、約束のメシヤによる霊的大改革をもたらしてくれることよりも、世における安定を求める思いの方が強くなっていたのです。すなわち、今得ている世における安定が、メシヤ来臨によって壊されてしまうのではないかという不安を感じたのでしょう。
* 霊が育てられていってなかったから、内側に起きてくる肉の思いが強くなり、神の約束に期待するよりも、世における安定を望む心の方が大きくなっていくのです。
* これが、神の約束に期待を持たなくなり、真の飢え渇きが失われてしまった信仰者の成れの果てとも言うべき姿になってしまっていることを明らかにし、信仰者への警告を示そうとしたのが、この箇所の第1の意図だと考えられます。
* それでは、第2の人々の、神のシグナルに対する反応として描いているのは、聖書信仰から言えば、邪教と言える占星術師たちの姿です。
* ユダヤ教信仰に生きる、真実な信仰に立っていたシメオンやアンナ(ルカ2:25、37 新86)たちのような人物も、少なからずいたはずだと思われるのに、マタイはどうして信仰者たちではなく、占星術師たちの訪問を取り上げ、神の選びの意図を見出そうとしたのでしょうか。
* 確かに、この人たちは、星占いという聖書信仰とはかけ離れた運命論的生き方をしていた人たちでありました。しかし、彼らの取った行動は、聖書信仰に立つ者が現すべき応答であったと見たのでしょう。
* その第1は、聖書において約束されているメシヤがこられるという内容に、何ら疑いを覚えなかったということです。そして第2は、神からのシグナルを見分けて、そのシグナルに応答しようと旅に出たことです。
* 第3は、そこに神の導きがあると信じ、約束されたメシヤに必ず会うことができると確信して向かったということです。それは、自分たちがささげることができる最高の贈り物をささげようと用意したことからも伺えます。
* 第4は、人の声よりも、夢の中で受けた神のみ告げの方に従って、他の道を通って自分たちの国へ帰って行ったということです。この人たちの目的は、神が約束されたメシヤに会うことでありました。
* もちろん、彼らの行動は、神を信じる思いから出てきたものではなく、メシヤに出会ったからといって、ユダヤ教に帰化したとは思えません。それでは、メシヤとの出会いは、彼らに何をもたらしたのでしょうか。11節に記されているように、星の導きが分かって、非常な喜びに溢れたという、知的探究心の満たしという喜びであったと言うのです。
* この非常な喜びに溢れたという言葉は、直訳しますと、「はなはだしく大きな喜びを喜んだ」というくどい言い回しであります。その言葉で、喜びがどんなに大きなものであったかを強調していることが分かります。
* 著者マタイは、この点に、信仰者が現すべき姿を見出すべきだと示そうとしたのでしょう。神がよく分かっておらず、メシヤの来臨が自分の人生にどれほど重要な意味を持つものかも分からず、ただ、星というシグナルを確かなものだと感じ、神が約束されている最重要内容だと示している聖書の内容がここに実現したと受けとめ、星の導きを確認して、これ以上喜べないほど喜んだと言うのです。
* 今日の私たち信仰者は、この当時の人々や東方の博士たちとは違って、メシヤ来臨の意味の持つすごさを知る者とされました。
* それは神が、どうにもならなくなっている人間を、根底から造り変えるためにご計画された、人類救済事業の実現の始まりを示す合図がクリスマスだということを。
* 神の時が満ちてなされた事業が持つ意義は、この私が、虚しい存在として葬り去られるか、それとも本物の人間として回復されるか、運命の分かれ道となる事柄だということであります。
* すなわち、私のために、約束されていたメシヤがきて下さり、私の王となって下さったと信じて、これ以上喜べないほど喜んだか、それとも、自分にとって世の安定を脅かす不安材料として見るか、その分かれ道がクリスマスだと言うのです。
* もしクリスマスに対して、私たちが、これ以上喜べないほどの喜びに溢れるという姿を現すことができないなら、私たちの信仰は、占星術師であった東の博士たち以下の応答しかできない者と言わざるを得ません。
* まして、霊的飢え渇きのない、神の出して下さったシグナルに何の反応も示さない、当時の多くの信仰者たちのように、霊が鈍くなっているとしたなら、神の導きを放棄した者となってしまいます。
* すなわち、クリスマスは、私たちを、本物の人間に回復させようとして下さる神の導きを本気で信じて、その導きをこれ以上喜べないほどの喜びに溢れて受け取っているか、また、思いと言葉と行動において反応し、救いの恵みの中に入れて頂いている幸いを味わう者となっているかどうか問われる時だと言えるでしょう。
* 神からのシグナルは、よほど主のお言葉に本気で向かって行っていなければ、すなわち、霊的に敏感にされていないならば、見過ごしてしまうようなものだと言えるでしょう。神の導きを本気で信じ、喜びに満ち溢れていく信仰人生を送らせようと、神の側では臨んで下さっているのです。
* 新約の時代に生きる私たちのために、神は導き手として聖霊を送って下さり、その導きが見える者に造り変えて下さったのです。だからパウロは、ローマ8:14で(新243)「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち神の子であると言ったのです。
* もし神の導きを見ることができないなら、信仰の喜びに溢れていることはできません。クリスマスの喜び、それは神の導きを見てはなはだしく喜ぶことなのです。そして日々キリストに出会うことなのです。